『ハンナ・アーレント』(2013)

「愛って何ですか?」という問い

ダイハツ新型ムーヴのテレビコマーシャル「安全性能」篇で擬人化されたトリセツ(小松菜奈)が後方誤発進抑制制御機能を男(長谷川博己)に説明します。男の「その優しさ、愛ですね」という言葉に対してトリセツが首を傾げながら「アイ?」といった後「愛って何ですか?」と訊きます。その言葉を聞いた男が固唾を呑んで終わります。

このあと男は愛とは何であるかを答えなければなりません。愛とは何かがわからないのに「それは愛である」と言えるはずがないとトリセツは考えるからです。こういう素朴でありながら根源的とも言える問いに答えようとするのが哲学のはじまりなのかなと思います。愛とか正義とか善とか悪とか、目に見えないものを正確に言葉にすることはむつかしい。
ネットでもしばしば話題になる「なぜ人を殺してはいけないの?」という子供の素朴な問いに「あかんて刑法に書いてるねんで」と法的解釈を用いずに答えることは簡単なことではありません。

そんな素朴な問いの延長線上に『ハンナ・アーレント』という映画があるのかもしれません。

哲学の映画

ユダヤ系哲学者ハンナ・アーレントの波乱万丈の人生からアドルフ・アイヒマン裁判にまつわる部分を切り取った映画です。スライス・オブ・ライフという形式になります。

ナチスドイツの時代、強制収容所へ移送する任務を遂行していたナチス親衛隊(SS)のアドルフ・アイヒマンを捕らえ、その裁判を傍聴したハンナ・アーレントが報告書を発表し、世界的スキャンダルとなったというストーリーです。アイヒマン裁判を通して彼女の哲学的論考をダイジェスト版として紹介している内容になっていると考えるのがいいかと思います。
従いましてこの記事も彼女の哲学に関しては映画のなかで紹介されている範囲内で書いていこうと思います。なんだか全部知っているかのような書き方ですが、その反対で映画で描かれている意外のことを存じないからです。また、主題の議論に触れずには書けない内容となりますので、映画の内容に著しく触れるためにここからは映画鑑賞後に読むことをお薦めします。

映画は、夜帰宅途中の男がバスを降りたところへトラックが近寄りその男を拉致するところから始まります。歴史的にいうとアイヒマンがクレメントという名でブエノスアイレスで逃亡生活を送っていたときに1960年5月11日モサド(イスラエル諜報特務庁)が拉致した場面を映像化しているのです。5月21日にイスラエルへ運ばれ1961年4月11日からアイヒマン裁判がはじまります。裁判の様子はテレビラジオで生中継されていたようで、映画のなかでも裁判シーンは実際のフィルムをうまく編集して作っています。
ユダヤ人たちは数百万人もの同胞を強制収容所に移送させたアイヒマンのことを悪魔の化身のような極悪人だと思っています。テレビに映し出された平凡な彼の姿や言動をみても猫被っているだけだと考えています。ハンナ・アーレントはむしろごく平凡な役人がなぜ残虐な任務を遂行し続けたのかを考えていきます。

悪の陳腐さ

映画では友人と交わされる対話やゼミ室で行なわれた「全体主義の起原」についての講義を経て「8分間のスピーチ」といわれる大講堂での講義で彼女がたどり着いた考えを講義します。実際には講義のスピーチは時間を計ってみると7分弱でしたけれど。
その考えとは、普通の人が行なう悪についてです。アーレントは普通の人が行なう悪のことを「悪の陳腐さ」と名付けています。英語で「the banality of evil」という言葉ですが映画では「悪の凡庸さ」と訳されています。悪の陳腐さがもたらすものは、人間であることを拒否すること、即ち「思考停止」であり、思考停止することで残虐行為が可能になると考えました。具体的に照らし合わすと、ごく凡庸な役人であるアイヒマンは人間であることをやめて思考停止することによって大虐殺を可能にしたという考えにたどり着いたのです。
では、どうすればいいのか。
思考停止をやめ、思考するのだといいます。”思考の風”を吹かせなければならない。”思考の風”がもたらすものは知識ではなく、善悪や美醜を見分ける力である、と。
考えもなしに行動することは陳腐であり、それが悪となることがある、ということなのです。
現代社会に置き換えると、上司がやれと言ったからやる、とか誰かが言っていることだから賛成するとか、内容をよく吟味しないでSNSで「いいね!」を押してしまうとか。自分の思考を介在させないことは、悪である、と言っているのです。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

スキャンダルとなったアイヒマンレポート

考えなければ人間とはいえない、と言ったハンナ・アーレントは、一方でアイヒマン裁判のレポートを発表するや世界的スキャンダルを巻き起こしました。スキャンダルとなった理由は主に二つです。
ひとつは、極悪人であるはずのアイヒマンを平凡な役人であると書いたこと。
もうひとつは、ユダヤ人が強制収容所移送に手を貸したという記述があったこと、つまりユダヤ人虐殺にユダヤ人が関係していたということです。

彼女は裁判を見たまま報告したにも関わらず、ユダヤ人たちからは彼女に裏切られたと思ったのだと思います。
しかも、彼女を学生時代から知ってる友人は、そういえば学生時代彼女が師であるマルティン・ハイデガーと愛人関係にあった記憶が蘇ってきます。ハイデガーをユダヤ側の哲学者だと考えている友人はナチスと寝た女と見るようになるのです。

そんな彼女に対し友人や大学が謝罪を求めますが、彼女はきっぱりアイヒマンやナチを擁護したことはたった一度もない、と言い放ちます。
それでも感情的に許せない友人は彼女と絶交します。

映画ではその先の説明がありませんが、彼女を批判する人たちに「理解と共感の違い」を訴えているんだと見ることができます。
相手の言い分は理解した、だからといって同意したことにはならないし、共感した覚えもない、ということなんだと思います。
ここから先を考えると面白いことがわかってきます。絶交した友人をはじめ彼女を非難する人たちは、理解と共感の違いをわかろうとしていない。つまり思考を停止している人たちである。
ユダヤ人虐殺という人類最大の迫害を受けた側が、今度は迫害を行なった側と同じ思考停止に陥っているのではないかという見方もできそうです。

これはたとえばスピルバーグ監督が2005年に撮った映画『ミュンヘン』にも似たテーマが描かれていますね。
また「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」というニーチェの『善悪の彼岸』の言葉を思い出させます。

アイヒマンの自己弁護

映画の裁判シーンで、判事から問いつめられたアイヒマンが、任務を忠実に行うことのどこが悪いんだと開き直るシーンがあります。開き直るというより、アイヒマンの立場で考えるなら、もし私がやらなくても人事的に誰かが配属されて遂行されていたはずれあるという言い分です。このあたりのシーンはスティーブン・ダルドリー監督による『愛を読むひと』(2009)の第二幕にあたる裁判シーンと似た内容となっていて、こちらをご覧になるとより深く考えることができるかもしれません。

思考することは大切だけれど

人として、ひとりの人間として、あるいは人間の尊厳のために、思考停止することなく考えなければならないと映画では語っています。

だけど、どんな状況でもそうできるとは必ずしも限らないのが悲しいところでもあります。

たとえば2012年に公開されたカナダ映画でアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた『魔女と呼ばれた少女』では思考停止しなければならない状況に置かれた罪のない少女を描いています。なかなか強烈な作品でした。もし機会があればこちらの感想も書いてみたいと思います。

しかし、もちろんハンナ・アーレントの「思考することの大切さ」は現代の私たちに直接訴えかけてくる言葉だと思います。

先の言葉を繰り返しますが、考えもなしに行動することは、それが悪となることがあります。
これは、知らんうちに悪に加担していたということですから、恐ろしいことなのです。
ナチスドイツは悪の陳腐さによって虐殺を行なったけれど、それは現代社会においても大企業に務める平凡なサラリーマンたちが巨悪を働くことがあったり、普通の人たちがよく考えもせずにTwitterでリツイートしたり、Facebookで「いいね!」押したりすることで結果、悪になることもあるんじゃないか、なんも変わっていないんじゃないかと言っているようでもあります。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

もう一度、裁判の正当性について考えてみる

さて、もう一度、映画のコマを戻して、そもそもアイヒマン裁判は正しい裁きを行なったのかということを番外編として考えてみたいと思います。

映画のオープニングでアルゼンチンで逃亡生活を送っていたアイヒマンを逮捕ではなく拉致しています。映画では描かれていませんが税関をかいくぐってイスラエルへ強制移送しているわけです。それってそもそも裁判として成立するものなのかという疑問が沸いてきます。

アイヒマンに責任を求めることがどうという前に、ユダヤ人を虐殺したナチスドイツは悪いことをしたのだからその罪を明らかにし償ってもらいたいという気持ちは理解も共感もできます。じゃあ、拉致してもいいのかとなりませんか? また日本に置き換えて考えてみると、同じように原子爆弾で多くの日本人を殺したアメリカに対して同じことをなぜしていないのかと考えることもできます。戦争に負けたのだから言ってはいけないということなのか、ドイツは負けたのだから言われて当然なのか、という問いにぶつかります。歴史に「もしも」はありませんが、もしも仮にユダヤ人虐殺は1945年でやめたけれど、ドイツが戦争に勝ってしまっていたら、なんの罰も受けずにすんだことなんだろうか、などと考えてしまうのがこの映画のファーストショットではないかと言えるかもしれません。

そういうことを考えてしまうと思い出す映画がやはり2012年に公開された『アクト・オブ・キリング』を挙げざるを得ません。100万人以上が殺されたといわれているインドネシアの大虐殺の実態を虐殺を行なった側にインタビューし実演してもらったドキュメンタリー映画で、今でもその政権が続いているのです。インタビューされたひとりははっきりと俺たちは勝った側なんだから何人殺そうと罪にはならないと言い切るシーンもあります。

まさにいろいろな現実的な問題が思考の風を必要としているようです。


関連資料

映画ではハンナ・アーレントの講義のシーンが2回あります。ひとつは映画中盤のゼミ室のような部屋で行なわれるもので、もうひとつはクライマックスの「8分間のスピーチ」といわれるものです。それぞれ次の著書を大胆に要約したものとなっていると考えられます。重要となるハンナ・アーレントの著書が用語『ハンナ・アーレント』公式サイトの「キーワード」のページに掲載されています。が、もしかしたらサイトが閉鎖される可能性もありますのでこちらに引用しておきます。

『全体主義の起原』全三巻(第1部:反ユダヤ主義/第2部:帝国主義/第3部:全体主義)1951年発表

19世紀中盤のヨーロッパで形成された反ユダヤ主義、19世紀後半から20世紀前半にかけて帝国主義がもたらした種族的ナショナリズム(人種主義)と官僚制を分析することで、それらがナチズムとスターリン主義という2つの全体主義の起原になったと結論づけた、アーレントの代表的著作。

『イェルサレムのアイヒマンーー悪の陳腐さについて』

アーレントがザ・ニューヨーカー誌に5回に分けて連載後、単行本化したアイヒマン裁判の記録。ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述が、内外のユダヤ人社会から激しく攻撃された。なお、現存する400時間以上の裁判記録映像(裁判開廷50周年の2011年4月11日、YouTobeに全巻アップされた)は、アーレントの著作を踏まえた形で『スペシャリストー自覚なき殺戮者』(1999)として映画化された。

また本文中にも紹介しましたが、 劇中の講義シーンについては、sanmarie*comの記事「悪の凡庸さ 映画『ハンナ・アーレント』」に詳しく書かれています。


DATA

原題:HANNAH ARENDT
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ Margarethe Von Trotta
出演:バルバラ・スコヴァ Barbara Sukowa (ハンナ・アーレント)
アクセル・ミルベルク Axel Milberg (ハインリヒ・ブリュッヒャー)
ジャネット・マクティア Janet McTeer (メアリー・マッカーシー)
ユリア・イェンチ Julia Jentsch (ロッテ・ケーラー)
ウルリッヒ・ノエテン Ulrich Noethen (ハンス・ヨナス)
ミヒャエル・デーゲン Michael Degen (クルト・ブルーメンフェルト)
上映時間:114分
製作国:ドイツ・ルクセンブルク・フランス