『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』(2014)

公開日の6月21日土曜日梅田のTOHOシネマズ梅田シアター2の19:15開始の回で見ました。
残念ながらガラガラでした。TOHOシネマズ梅田で2番目に大きな劇場で475席(スクリーンサイズ5.7×13.3m)もあると空席が目立つと正直つらい。

別の映画での予告編で芦田愛菜の関西弁がなかなか上手いなと思って調べてみると西宮出身でした。上手いの当たり前ですね。ネイティヴやったんや。
ということもあってか、映画は思いの外よかったんです。
正直、ほとんど期待していなかったんだけど、いい映画でした。
ストーリーよりも彼女が演じるこっこ(渦原琴子)のキャラクターがとてもいい。
芦田愛菜の(今風に言うとすれば)巧過ぎる演技がわざとらしく見えるんじゃないかと予想していましたが、この頃の小学生ってそもそもわざとらしい。なのでむしろリアルでした。
タイトルの円卓は映画では説明がなかったんだけど、西加奈子の原作によると、「駅前の潰れた中華料理店『大陸』から譲り受けた」(Wikidepiaによる)らしいけれど、現実的には多分、部屋に入らないんじゃないかなと思う大きさです。

阪急電鉄沿線を歩くシーンや団地の風景から千里あたりかなと思って見ていると映画の真ん中らへんに太陽の塔の背中が見えるシーンが出てきたので、恐らく阪急千里線の北千里駅近郊と言う設定だろうと思います。
そういうロケーションだったり関西弁がこの映画の最大の魅力となっています。

『ゴジラ』(1954)


日本が世界に誇る怪獣映画の第1作である『ゴジラ』を見てきました。
太平洋戦争終了からわずか9年後の昭和29年、西暦1954年に日本でこんなクオリティ高い映画を作っていたというのに驚きます。

1954年3月1日に行なわれたビキニ環礁の水爆実験によってマグロ漁船第五福竜丸が被爆したことがきっかけで『ゴジラ』の企画が立てられ、同年11月3日には公開されました。脚本をわずか1週間で書き上げ(5月初旬)撮影開始が8月7日、51日かけて9月下旬にクランク・アップしたということです。
今見ればちゃっちい特撮シーンもありますが、モノクロ画像と相まって迫力ある映像に仕上がっています。

若い女性が電車の中で友達との雑談で「長崎の原爆から逃れて東京にやってきたのに、ここでも放射能にやられるかもしれないって一体どこに行けばいいの」とさらっと口にするシーンもあったりします。
水爆実験からはじまったということ、また戦後わずか9年で戦後復興のためにアメリカから援助を受けていたというと言う社会的背景もあって、ただの勧善懲悪ものではないストーリーとなっているのも素晴らしい。

この映画関西地区では6月20日までの上映で、いつでも1,000円で見られます。
もし映画館でご覧になる場合は出来るだけ前の席でご覧になることをお勧めします。

『X-MEN: フューチャー & パスト』(2014)


「X-メン」シリーズを初体験しました。しかも、というかどうせなら3Dで。
TOHOシネマズの3Dメガネが改良されていて、メガネ on メガネでも装着しやすくなっているのが嬉しい。

DCコミックと並ぶ二大アメコミ出版社であるマーベル・コミックの代表作のひとつがこのXメンシリーズです。
DCコミックはスーパーマンとバットマンシリーズ、マーベル・コミックはスパイダーマン、アベンジャーズ、アイアンマンなど。
親会社は現在DCコミックがワーナー・ブラザース、マーベル・コミックはディズニーになってますが、このXメンシリーズは20世紀FOXです。

5月30日に公開されたばかりということと、1日の映画の日と言うことで、劇場はほぼ満席。観るのを決めたのが1時間前だったので、すでに最前列しか空いていませんでした。
なぜ観ることにしたのかといいますと、ジェニファー・ローレンスが全裸に近い状態で出演していると言うこととファン・ビンビンが出演していると言うスケベ心からでした。
ファン・ビンビン(范冰冰)ってびっくりするほど美人なんですが、この映画ではその美貌があまりうまく発揮されていませんでした。
名前がすごい。日本語の響きからとるとすごいAV女優なんかと思うような名前です。

さて、前置きが長くなりましたが、今回「フューチャー&パスト」というサブタイトルがついています。「未来と過去」じゃあかっこ良くないからカタカタにしたんでしょうね。Xメンの舞台はそもそも未来を舞台にしたSFものですが、本作では1973年とを行き来するストーリーとなっています。

過去に移動する理屈がよくわからなかったのですが、そこをあまり追求しても意味がなさそうです。
それよりも1973年に世界が大きく変わることのきっかけとなることが起こるのです。
ほかの作品を見ていないからわからないのですが、このXメンにはマイノリティたちの苦悩が主軸にあります。
黒人差別だったり、ハンディキャップを持っている人たち、同性愛者、人種差別を受けている人々をXメンとして描いています。

全然違う映画ですが、たまたま一昨日録り置きしていた映画『天使の分け前』というケン・ローチ監督の作品を観ましたが、この作品も同じく社会的弱者がどうやって生きて行くかを描いていました。ストーリーも表現方法も全く違いますが、実は同じテーマを描いていると思います。

このXメンシリーズの原作者はスタン・リーという漫画原作者でスパイダーマン、超人ハルクも彼の作品です。
社会からはじき出されたマイノリティが特殊能力を持つことで社会に認められようとする設定が多いように思います。
そのことについて考えていたのですが、多くのヒーローものは日本のウルトラマンシリーズも含めて、そういう設定が基本になっているのがほとんどなんだなということに気づきながら帰ってきました。

今年のバレンタインデーに同性愛者であることをカミングアウトしたエレン・ペイジが出演していることもよくできたキャスティングだなと思いました。
監督のブライアン・シンガーはユダヤ人でありゲイであることを公言していて、Xメンたちに投影されていることがわかってきます。

『ザ・イースト』(2013)

かつてM字開脚で話題になったインリンといえば「エロテロリスト」ですが、この映画はエコテロリスト集団を題材にしています。

タイトルがなぜ「ザ・イースト」なんでしょう。「ジ・イースト」と発音することは中学校一年生以上なら誰でも知っていることです。人を莫迦にするのも大概にせいやと言いたくなりますね。このタイトルがエコテロリスト集団の名称です。

エコテロリスト、すなわち環境テロリスト集団とは、環境汚染や健康被害をもたらす大企業の幹部に報復を行なう集団です。
たとえば、海を石油で汚染させた企業のCEO宅を石油まみれにする、という手法をとるわけです。

やられたらやり返す!と半沢直樹よりも文字通りされたことと同じことをその人に与える集団なのです。
物語はそんなエコテロリスト集団に潜入捜査を行なう任務を受けたサラが、その任務と倫理観の狭間に揺れ動く様子を描いています。
正義とはなにかを考えるのがテーマと言えます。

主演のサラを演じる女優がとても端正な美形だなと調べてみると、ブリット・マーリングという人で本作ではなんと脚本・製作もこなす才女ではないですか。すごいなあ。
そんな彼女の才能を認めたのがリドリー・スコットと亡き弟トニー・スコットの兄弟で、したがってスコット・フリーが製作しています。
エンドロールの後に、例のスコット・フリーの動画が流れる作品なのです。
と思うとリドリー・スコット・ファンであるぼくには映像と音楽の雰囲気がとてもスコット・フリーっぽく見えました。

出演陣は、イーストの主要メンバーのひとりを演じるエレン・ペイジとサラの上司役のパトリシア・クラークソン以外はぼくは知らない人たちでした。それも合わせて非常に重いテーマでありながら新鮮な映画としてみることができました。

2013年に見た映画ベスト10

去年見た映画をリストアップしてみると129本ありました。記録しわすれた映画もあるので130本以上は見てるはずです。
そのなかからアカデミー賞みたいによかった映画を10本までしぼり、さらにベストワンを選んでみました。

候補の10作品は次の通り。鑑賞日順のリストです。タイトルの後の「*」印は劇場鑑賞で、無印はWOWOWあるいはNHK-BSで見たものです。

・『ドラゴン・タトゥーの女』*
・『宇宙人ポール』
・『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』*
・『ブエノスアイレス恋愛事情』
・『人生はビギナーズ』
・『華麗なるギャッツビー』*
・『007 スカイフォール』*
・『桐島、部活やめるってよ』
・『パシフィック・リム』*
・『クロニクル』*
・『素晴らしき哉、人生!』

あれれ、11選になってますね。でも言い訳として古典的名作『素晴らしき哉、人生!』を去年始めてみたからリストに入ってます。
おそらくこの『素晴らしき哉、人生!』が圧倒的1位になっちゃいますが、今年に入れるなとも言われそうで、それ以外の10作品からたったひとつの作品を選ぶことにします。

と、その前に、ノミネート作品についての簡単な感想を。

『ドラゴン・タトゥーの女』* 
これよりもスウェーデン版『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』の方が好きな人が多いと思います。ぼくもスウェーデン版の方が好きです。が、それを差し引いてもこちらのデイヴィッド・フィンチャー版も傑作と言わざる得ません。スウェーデン版に比べて写真や押し花の額の扱いが弱いのは弱点ですが、映画そのもののクオリティの高さ映像の美しさは相当のものだと思います。

『宇宙人ポール』
コメディSF映画の表現形式ですが、いやだからこそここまで表現できた作品です。原題は単に “Paul”。これをキリスト教的に読むとパウロです。いろんな映画のパロディやギャグ満載で、キリスト教福音派への批判もしっかりやってくれてます。
宇宙人もののSFでは『第9地区』にならぶ近年の大傑作です。

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』*
前田吟みたいな顔したアン・リー監督が正真正銘の大天才であることを見せつけられた作品。
上映当時、感想の多くが画像の美しさや表面的な物語にあれこれいう内容でしたが、もっともっと奥の深いものなのです。重箱4段重ねのお弁当みたいに食べ終わったと思ってもその下があります。そこに気づくとそれを撮り切った監督と作品に対して高い評価をつけるしかありません。

『ブエノスアイレス恋愛事情』
アルゼンチン映画を初めて見ましたが、ここまで洗練されている作品とは正直驚きました。
建築に携わる自分から見ると建築愛に満ちあふれた作品という見方もできます。こんな名作が日本未公開とはどういうことやねん。

『人生はビギナーズ』
メラニー・ロランにハズレなし。調べてみるとメラニー・ロラン出演映画で来日していない作品もあるようなので、全作品とは言い切れませんが、日本で公開された彼女の出演作品はすべてハイレベルな作品です。
シナリオが素晴らしく、ベストワンとして最初に頭に浮かんだ作品がこれです。
深い悲しみがなければ人生は豊かにならない。

『華麗なるギャッツビー』*
絢爛豪華ということばを表現する映画でこれ以上の作品があれば教えてください。
バズ・ラーマン監督の前作『ムーラン・ルージュ』を遥かに凌ぐ豪華な映像の連続です。バズ・ラーマンのもうひとつ素晴らしいところは音楽の使い方です。『ムーラン・ルージュ』と同じく当時の音楽をそのまま流すのではなく今日的文脈に合わせた選曲は見事です。同じ手法で映画をつくろうとしているソフィア・コッポラとの才能の差は明らかです。

『007 スカイフォール』*
意外と評判の悪い感想を多く見た007最新作ですが、近年では最も映画的に優れていると思っています。
特に過去の007シリーズへのオマージュだったり、小道具(映画でいうところの小道具で007アイテムという意味だけではありません)のこだわりなどはさすがといえます。主演の3人の関係がとてもよく描かれています。

『桐島、部活やめるってよ』
この映画は映像美がどうとかいう類いのものではないと思いますが、どこからどうみても素晴らしい映画です。これについて語り出すと本編を超える長さになりそうです。日本映画でもついにここまでの作品を作れるようになったんだと思います。
それに比べて山崎貴監督はなんなんだ! これくらいで日本人なら泣くやろうと言う中途半端な演出しやがって。特撮だけやっとけい!

『パシフィック・リム』*
マジンガーZに熱中した世代には涙なくしては見られない。久しぶりにアドレナリン出まくります。吹替版がオススメです。
タイトルを直訳すると「太平洋枠」です。ん? TPPのことかと聞こえますがその通りですね。TPPをわかりやすく映画にしてみました。てちょっと違うかな。
音楽が超アゲアゲです。http://youtu.be/tMTr2rbqSBM

『クロニクル』*
この作品の原作は大友克洋です、と言ってもいいです。
この映画が非常に今日的なのは、恐らく劇場で見るよりもノートパソコンのネット配信で見た方がいいと思われるところです。YouTubeで見た方がよりリアルに感じられると思います。

『素晴らしき哉、人生!』
『三十四丁目の奇跡』と同じくアメリカ人が最も見ているクリスマス映画2本のうちの1本。
誠に恥ずかしながら、この歳ではじめてみました。「感動の名作」なんて程度の表現では失礼な作品。

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と、このなかから1作だけ選びます。
ひとつに選ぶのはとてもむつかしいところですが、『ブエノスアイレス恋愛事情』をベストワンにしたいと思います。

『人生はビギナーズ』となかり悩みましたが、アルゼンチン映画にします。

先述の通り日本劇場未公開だった本作品ですが、ありがたいことに、関西では今月いっぱいで閉館する梅田ガーデンシネマで2月8日から閉館日の2月28日まで上映してくれます。
すばらしい。何回見に行こうかな。

『ル・コルビュジエの家』(2009)

2009年のアルゼンチン映画で、日本では2012年9月15日に公開された作品です。
先日WOWOWでの放映があり、録画したものを後日鑑賞しました。


1948年にル・コルビュジエが南米大陸に設計した唯一の建築(竣工が唯一ということで計画案は他にあります)であるクルチェット邸を舞台とした映画です。

なので邦題が『ル・コルビュジエの家』となっていますが、原題はスペイン語で “EL HOMBRE DE AL LADO” といいまして直訳すると「隣の人」という意味になります。


日本公開にあたりル・コルビュジエの絵画を数多くコレクションしている大成建設と Galerie Taisei が協賛していることからこの邦題になったんだと勘ぐっていましたが、実際にアルゼンチンでもロケ地をこの建築で行なうために建築家協会に企画を持ち込んでいました。


ル・コルビュジエの建築紹介映画のように見えるタイトルですが、そうではなく、隣人との騒音問題が物語のきっかけになっています。
たまたまそれがクルチェット邸が舞台ということであってストーリー上の必然性はありません。しかし、クルチェット邸を舞台にしていることから映画全体がスタイリッシュに仕上がっていると言えます。先に書いた通り企画段階で建築家協会に撮影許可をお願いしていることから、クルチェット邸の広報的映画にもなっています。


映画は真っ白い壁がハンマーで破壊されるシーンからはじまります。私たちは前もってル・コルビュジエ設計の住宅が舞台ということを知ってるのでいきなり壁を解体するシーンを見て冷や冷やします。いくら映画といえどもクルチェット邸の壁を壊したらあかんやろ。
そして、見ているものの想像力を借りてクルチェット邸の壁が解体されようとしているように巧みに編集されています。
ル・コルビュジエのファンでなくてもこの行為に不愉快になりますが、クルチェット邸の図面を見ながらストーリーを追うと、敷地奥にある階段室の壁が隣家と共有していて、クルチェット邸側からは奥の庭の塀となっている隣家の外壁を解体しているようです。


物語は隣人のジェフリー・ラッシュにそっくりの俳優ダニエル・アラオス演じるビクトルがラファエル・スプレゲルブルト演じるクルチェット邸の主レオナルドの寝室の窓の正面の壁に穴を開けて窓をつけようとすることから、問題が続出するというものです。
デリカシーのないこのビクトルの行為に怒りを感じながら見てしまいましたが、「壁の力」を思い知る作品として見ることもできます。
壁にひとつの穴が穿たれることによってその空間に影響を与えます。その影響は人間関係にも変化をもたらすのです。
この映画では単に近隣問題だけでなく、自分の家族関係にまで波及します。そして善悪とは何かまで発展していきます。


同時にル・コルビュジエが唱えた近代建築の五原則のうち「ピロティ」と「横連窓」は開放性を言っていると考えてみると、クルチェット邸の開放的な空間が故に生じる防犯に対する脆弱性を指摘しているという見方もできます。
実際映画の中でも警備会社にセキュリティを掛けてもらおうと現地調査をお願いすると、無理だと言われるシーンが象徴的です。
だからといって塀に囲まれた住宅がいいということには決してならないわけで、物語上は開放性についての利点や教訓やメタファーなどが織り交ぜられているとも言えます。


最近日本でも見慣れてきた住宅作家による白い家がスタイリッシュでかっこいいんだけれど冷たく感じてしまうことが少なからずあるのに対して、ル・コルビュジエの白い空間はなんとも素朴で優しく温かみのある空間だと改めて思います。


見終わってカメラアングルや編集されたシーンを思い返すと、CGによる視覚的トリックは使っていませんが、破壊された壁とその正面にあるクルチェット邸の寝室の窓はオープンセットで組まれたものではないかと考えられます。


この映画のもうひとつの主役である「クルチェット邸」の図面は下記公式URLから見ることができます。
http://www.action-inc.co.jp/corbusier/trivia.html

『ロッキー』(1976)

世界で最も有名な映画のひとつで、そのテーマ曲も世界で最も有名な映画音楽のひとつと言える1976年公開の映画『ロッキー』を初めて見ました。TOHOシネマズの「新・午前十時の映画祭」のお陰です。
スタローンには興味なかったりなどで、これまで全く見る気がしなかった映画なのですが、1作目だけは見ておこうとやっと見る気になったのです。

 ロッキーは負けていた

これまでにテレビ番組や映画のパロディなどでそれなりのあやふやな事前情報があります。
大雑把にいうと、売れないボクサーが世界チャンピオンと戦うチャンスを得て死闘を繰り広げる、ということは分かってます。
生卵を5つ飲むシーンだったり、トレーニングしているシーンだったり、試合終了後に「エイドリアン~!」と叫ぶシーンだったり、と部分的に垣間みたことのあるシーンを自分なりに勝手に組み立てていましたが、もちろんその想像の通りというものではありませんでした。

見終わってから何人かに訊いてみたのですが、多くの人が、ラストの試合でロッキーが勝ったと思っていたようです。
先に言っておきますと、画面だけを見ていると、あたかも勝ったかのように見えますが、15R最後まで戦って判定に持ち込まれて負けています。
つまりこの映画の主題は、勝つことではなかったのです。

映画のストーリー上、最も重要な台詞が試合の前日に出てきます。エイドリアンの眠るベッドに身を寄せながらロッキーが言うのです。
世界一のチャンピオンに自分が勝てるはずがない。でももし15ラウンド終わってもリングに立っていることができたら、自分がただの三流選手ではないことを証明できる、という内容の台詞です。

これが映画「ロッキー」の主題だったんですね。

 スタローンが書いたシナリオ

映画「ロッキー」を見る前にぼくが知っていた粗情報は一般的に知られていたように次のことでした。
当時俳優として全く売れていなかったシルベスター・スタローンは、自分が映画に出られないのは世の中に自分の出演できるシナリオがないからだ。だったら自分で書けば出られるのではないか、という思いから「ロッキー」のシナリオを書き上げ売り込んだところ映画化が決まりました。ところがだからといって出演が自分ということにはならず、オーディションを勝ち抜いて(と思っていたんだけれど実際は違っていたようです)ロッキーを演ずることができた、というものです。
つまり、スタローンが主演であることも非常に重要な映画ですが、そのストーリーにおいて、当時のスタローンを色濃く反映した内容になっています。
全体のストーリーそのものが自分がこの映画に主演することで三流の役者でないことを証明したいということですが、ディテールにもいろいろと当てはまるところがあります。

まず、年齢が一致します。ロッキーと当時のスタローンの年齢が同じ30歳です。
次に面白いのが主演のロッキー・バルボアが自分を売り込むためにつけた「イタリアの種馬」というニックネームです。
字幕で「イタリアの種馬」と出てくるのではじめはピンと来ませんでしたが、ポスターにあるスペルを見ると “Italian Stallion” とあるのを見て、これは自分の名前スタローン(Stallone)をもじってるやん、と気づきます。
また、ロッキーのキャラクターそのものは当時不遇だったシルベスター・スタローン本人を反映してますが、そんな自分に対してエールを送るような仕掛けがいろいろあることがわかります。

途中から恋人になるエイドリアンの兄であるバート・ヤング演じるポーリーは、ロッキーの親友であるだけでなく、精肉工場のキツい仕事がいやで、ロッキーに仕事を紹介して欲しいと思っている。また冴えない自分のことは棚に上げて、彼氏もつくらず家に引き籠もっている妹エイドリアンを罵倒する。
映画の後半は明らかにアル中になってしまったポーリーは今のぱっとしない人生は自分ではなく自分以外のことが原因であると思い込んでいるキャラクターで、恐らくスタローン自身の思わず言ってしまいたくなる「愚痴」が作り上げたキャラクターのように見えます。

そのポーリーの人見知りの激しい妹役でフランシス・F・コッポラの妹でもある女優タリア・シャイア演じるエイドリアンはロッキーが通い詰めるペットショップの店員でメガネを掛けファッションにも気を配らないいけてない女子として登場します。
そんな彼女をロッキーが見出したという設定になっています。

夜の街をたむろする不良グループのなかにたしか12歳という設定の女の子がいます。彼女は不良仲間からタバコを回し飲みしたりしているところをロッキーから注意されるシーンがあります。
ロッキーは女の子にこんなことを言います。
悪い奴らと一緒にいるとなにひとついいことはない。ことばは汚くなるし、タバコや酒もやるようになる。それは自分にとってひとつもためにならないし、そんな彼らと一緒にいるところをみんな見て、だれも付き合ってくれなくなる。だからちゃんと友達をつくらないとだめだ。というような内容だったと思います。
これは、ロッキーがその女の子に言っているように見えて、スタローン自身に言っている台詞だと思います。
ストーリー上も、そういうロッキー自身もヤクザな高利貸しの取立人として日銭を稼いでいるのだ。

ロッキーが飼っているペットも面白い設定となっている。
自宅で土鍋程度のガラス容器に小さな亀を飼っている。その亀はエイドリアンが勤めるペットショップで買ったもので、亀の餌を買いにいくシーンでエイドリアンを出してくるという設定ですが、そのペットショップにその体形には小さすぎる檻に入れられている犬が出てきます。実際にはスタローンの愛犬バッカスらしいのですが、付き合うようになったエイドリアンがもう誰も買ってくれそうにないからランニングのお供として飼おうと連れてきます。
大喜びするロッキーがエイドリアンにこの犬は何を食べるんだと訊くと「小さな亀」と答えます。多分アメリカでは爆笑のシーンだったのかなと思いますが、この室内で小さなガラス容器の中で飼われている亀から外を走る犬という変化は今の状態から突破したいという強い思いにも見えます。

そういうスタローン自身の当時の思いが何重にも盛り込まれたシナリオになっているように見えるストーリーだと思います。

エイドリアンの兄でその喋り方だけでバート・ヤングだとわかる個性派俳優の演じるポーリーの勤務先である精肉工場のシーンを見たとき、これ、リドリー・スコットの『ブラック・レイン』で同じシーンがあると気づきます。
映画の最初に出てくるスタッフの名前の中に “James H. Spencer” とあったのを『ブラック・レイン』のプロダクションデザイナーNorris Spencer と勘違いしたことから、勝手に納得してしまっていました。
James H. Spencer と Norris Spencer がただの苗字の一致だけなのか縁者関係にあるのかは知りませんが、オマージュだったんですね。

あ、思ってたんと違うかったというか、ちょっと意外だったのはあの有名なロッキーのテーマは作品中にたった一回しか流れませんでしたね。
そのたった一回を際立たせるためか音楽は極力使われていませんでした。

と、そんなことを思いながら見た初映画『ロッキー』でした。

『フォスター卿の建築術』(2010)


先日、十三のシアターセブンに「フォスター卿の建築術」を見に行きました。
有名な第七芸術劇場の1階下にあり、入るとわずか36席のミニシアターです。
この作品は一日一回上映なので15:35~16:51という時間しか選択肢がありませんでした。

劇場も小さければ作品も長編というにはややコンパクトな76分という長さです。

ノーマン・フォスターは自分には正直あまり興味の沸かない建築家でして、好きでも嫌いでもありません。つまりは有名な作品はわかっていますが、それ以上に詳しくは知らない建築家だったのでちょうどいい機会かなと見てみようと思ったのです。

正直な感想は、一体何のために作られた映画なのかがまったくわからないものでした。
強いて言うなら、事務所のプロモーションのためにつくられたのかな。
代表作を美しく撮ること、ノーマン・フォスターの略歴に浅く触れること、友人やスタッフたちのインタビューなどで、全体的に表面的なものでとどまっています。
タイトルにある「建築術」について語る部分はほぼありません。強いて言うなら一言くらい。三角形は強度もあるし部材が減らせるのでとてもいい、くらいなものだった。
これだと学生の教材にもならないなと思いました。
原題は “How Much Does Your Building Weigh, Mr. Foster?” 直訳すると「フォスター君、きみが設計した建物の重さはいくらかね?」となるが、これは師であるバクミンスター・フラーがノーマン・フォスターに訊ねたことばで、フォスターは即答できず後で計算してみて総重量のうちおよそ半分が基礎部分だったというエピソードが紹介されているだけで終わっている。
じゃあ、それがどうなのかについては述べられていない。もっと軽くすることが必要である、あるいはなぜそうする必要性があるのか、などには詳しく触れられていない。
またフォスターの得意とするエネルギーや空気の流れについての説明は全くなかった。
もしかしたら心地よい音楽と浮遊するようなクレーンからの撮影でうとうとしている間に説明があったのかもしれないけれど。

ぼくが最も気に入ったシーンは、あるオフィスのアトリウム空間にリチャード・ロングがただただドローイングをしていく姿でした。

フォスター卿の建築術 [DVD]/KADOKAWA / 角川書店
¥4,935
Amazon.co.jp

『ゆれる』(2006)


公式サイト:http://www.yureru.com
2006年の映画で西川美和監督の2作目です。

公式サイトに「日本アカデミー賞 優秀主演男優賞(オダギリジョー)/ 優秀助演男優賞(香川照之)」とあります。
日本が世界に恥じる映画賞、いい加減このノミネート者にすら賞を与えることやめて欲しいですね。と本題とは関係ないけれど。

香川照之、真木よう子、蟹江敬三は「龍馬伝」のメインキャストじゃないか、と思いながら見てしまいました。

当時まだ駆け出しの真木よう子がオーディション会場の控え室で一人待っていると、ライバルの美人女優らしき女性が入ってきたので、負けるかボケ!と思いっきりガン飛ばしたら監督の西川美和だったという逸話があります。

さて、西川美和作品を2つ連続で見ましたが、この作品は途中からじんじん頭が痛くなるような内容です。
兄弟や親子、親戚だからこそある居心地の悪い関係性がよく出ています。

真木よう子が出演しててタイトルが「ゆれる」っていうことは、真木よう子の胸がゆれる話なんだろうかと鼻の下を伸ばしかけましたが、違います。
物語は、香川照之とオダギリジョーの兄弟と香川照之の実家が経営するガソリンスタンドで働く真木よう子の3人が蓮見渓谷に出かけ、真木よう子が香川照之と吊り橋を渡る途中で彼女が墜落死してしまい、それが殺人事件として立件されるというもの。

物語構成上、後半は裁判劇になってしまうものの、田舎の裁判所なので映画的な緊迫した裁判劇とは違っています。
裁判の行方が重要なので結末には触れられませんが、現実には考えにくい結末になってしまっています。そこがどうも引っかかってしまう。
なので、この映画は実はリアリズムを装ったファンタジーだと理解するのが恐らく正解だと思いました。
そしてそこはそうしないとこの映画での兄弟の物語としてうまく作用しないために計算されたのかなと。

さて、ラストシーンに涙したという複数の友達の感想を聞いております。
ネタバレになるために詳しく書きにくいのですが、映画の重要なシーンを反復させることで盛り上げています。
つまりこれはどういうことかというと……ネタバレになるので書けないのでした。

『夢売るふたり』(2012)

昨日、WOWOWで小山薫堂と安西水丸のふたりが紹介する「W座からの招待状」というコーナーで上映(放映)された作品です。

話題の女流監督西川美和の作品をはじめてみました。

放送後小山薫堂と安西水丸が感想を言うのですが、小山薫堂が「とてもいい映画だと思うんだけど、あまり受賞されていないのが残念」みたいな発言をしていて安西水丸もなんとなく同意していました。

ぼくもとてもいい映画だなと思いました。

ところが、上掲の予告編を見ると、あららららと。

ほとんどこの予告編で済みそうな内容に思えてしまったからです。

もちろんこれは本編を見たから言えることだと思うし、一番肝心だと思われる箇所には触れていませんが、でもほとんど語られているなあと。

と思うと、ちょっとどうしたものかなというところではあります。

さて、幸い今回は録画してまだ消していないので、どうしてももう一度見て確認しなければなかない重要なシーンがあります。

ここに触れてもネタバレにはならないと思うので書いてしまいますが、主演の松たか子と阿部サダヲが実は本当の夫婦ではなかったのではないかという疑惑のシーンです。

ぼくの勘違いかもしれませんが、むしろこの勘違いのまま見た方がこの映画にぐっと深みが出てくるなと感じました。

この作品、もっと喜劇にすれば作品性が高まったんじゃないかなと思いました。

やや喜劇よりのつくりですが、ベースはリアリズムとして撮られているためにちょっと笑えないシーンに引いてしまいます。

強く感じたのは、ふたりが結婚詐欺で得たお金を家で計算しているかなにかのシーンで、テレビで両親が二人がかりで我が子を虐待死させるニュースの画面に向かって、「夫婦2人で気づかないままこんなことしてたらあかん」みたいな台詞を言う吐く場面があります。

こういうシーンで爆笑させるようなコードで作られていれば、みんなゲラゲラ笑いながら、ふと我に返らせるとより深いものになったような気がしてしまいました。

「ゆれる」は録り置きしておいたのでまた近日中に見たいと思います。