『エクス・マキナ』のポロック

出演者わずか4人。舞台は人里離れた邸宅。しかも、出てくる部屋はごく限られ、部屋に置かれているモノもごく少ない。
うっかり寝てしまいそうな抑えられた演出。
そんな地味で静かな作品ですが、その表現形式とは真逆でとても大きなテーマを扱っている作品です。
淡々として一見要素の少ない画面に、さまざまな要素を巧みに組み合わせているのです。
要素が少ない分、その要素の意味も重くなっていると言えます。
そういう意味でカルト映画の巨塔『ブレードランナー』を意識した映画に見えます。表現形式は違いますが、カルト映画となる条件は揃っています。
アレックス・ガーランドはこれが監督初作品ですが、この前に『わたしを離さないで』の脚本を書いていて、どちらも似た題材を扱っていると言えます。そしてテーマはどちらも『ブレードランナー』と同じです。
早くもカルト映画の傑作といわれている本作には書くべきところがいろいろ出てくるので、今回は一枚の絵について書いてみます。

部屋にジャクソン・ポロックの絵が架けられています。
本編にポロックについて語られるシーンもあます。
絵についてセリフのなかでポロックの絵画手法をAIになぞらえて語られています。
具体的にはドリッピングによる絵は一体誰が書いたと言えるのか。ポロックは自分を無にして、意図的に書いているわけではないが、ランダムに書いているわけでもない。それはAIロボットであるエヴァと対比して話されています。エヴァはコンピュータのワイヤーフレームのような線画を描くのですが、それがなんなのかわからない。そのことと対比させるためにポロックの絵を使っています。

この映画にポロックの絵が出てくるのにはもうひとつの意味があることに気がつきました。

2006年11月にゲフィン・レコードの社長デイヴィッド・ゲフィンが所有していた「No.5, 1948」をにメキシコの投資家デイヴィッド・マルチネスが1億4000万ドルで競り落としたとニューヨークタイムズ紙が報じたのです。

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1億4000万ドルというと当時のレートで約165億円、この映画の製作費1500万ドルの9倍以上です。
この落札額は絵画の最高価格に近い金額で、つまりはとてつもない価値のある絵ということです。
なんだこんな作品にこれほどの金額がつくなんて、それだったら自分でも描けたのに!と思った批評家は多かったようです。
ところが、このポロックの絵を数学的に分析してみると、意外にもかなり巧みな技を駆使していたことがわかってきました。
マーカス・デュ・ソートイ著の『数学の国のミステリー』にこんなことが紹介されています。

 事実、オレゴン大学のリチャード・テイラー率いる数学者の一団が1999年にポロックの絵を分析したところ、ポロックがあのひきつけの発作のような手法で自然好みのフラクタル図形を作り出していたことが明らかになったのだ。ポロックの絵は、一部を拡大しても全体ときわめてよく似ており、どうやら、フラクタルの特徴である無限の複雑さを持っているらしい(もちろん拡大倍率をどんどん上げていけば、けっきょくはひとつひとつの絵の具のはねが見えてくるわけだが、それにはキャンバスを千倍以上に拡大する必要がある)。

この数学的分析によってポロックの作とされる絵画の真贋を判定することができるようになりました。
ポロック・クラズナー真贋証明委員会がテイラー率いる数学者チームに依頼し、収蔵庫から見つかった32作すべてが偽物であると判定されたのです。
一方でテイラーは、フラクタルな絵画を描く「ポロック化装置」を作っている。絵の具を入れた壺を糸で電磁コイルに取り付けて、いかにもポロックらしい作品を描くことができるそうです。
ここで重要なのは「数学的分析」ということなんだと思います。
映画の中ではその壁に掛けられたポロックの絵にゆっくりとカメラが寄るシーンがあります。
この絵は本物か偽物かをあなたは見分けられるかな。きっと見分けられまい。もう人間には判断できないんだよ、とじわじわと迫ります。
『ブレードランナー』のタイレル社のフクロウのように。

参考文献:マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』新潮文庫

原題 Ex Machina
監督 アレックス・ガーランド
出演 ドーナル・グリーンソン
   アリシア・ヴィキャンデル
   オスカー・アイザック
音楽 ベン・サルスベリー
撮影 ロブ・ハーディ
上映時間 108分
公式サイト exmachina-movie.jp


関連記事の紹介
『エクス・マキナ』の面白いエピソード15選!▶︎http://ciatr.jp/topics/163731
http://www.in-movies.com/blog/2016/5/29/-exmachina-
http://kagehinata64.blog71.fc2.com/blog-entry-1152.html
http://touris2.oops.jp/2016/06/14/exmachina/

『ボーダーライン』(2015)

期待が高まりすぎたために、必要以上にハードルを上げてしまい、本当はかなりいい作品なのに思ったほどいい作品と思えなくなることがありませんか。
メキシコ麻薬戦争という題材、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品、しかも撮影監督はロジャー・ディーキンス。期待するなと言われても期待してしまう組み合わせです。
でもな。
そんなにすごくないかもしれないしな。
という不安も一瞬頭をよぎりました。
でも、大丈夫です!
期待以上です。
さすが、プロが本当のプロの仕事をしてくれました。

あまりにもよかったので、4回映画館に行きました。本当はもう一回行けそうだったのは残念でしたが、でも4回のうち3回は最前列中央に座って、視界の端まで映画の世界に浸ることができました。

と、この映画に関してはあまりに気に入ってしまったため、感想を書くのがむつかしい。
ただの依怙贔屓の内容になってしまいそうになるからです。
でも、何も触れないわけにもいきませんので、今回は、音楽について少しだけ書いてみます。

アカデミー賞が偉いといいたいわけではありませんが、この作品はアカデミー賞の撮影賞・作曲賞・音響編集賞にノミネートされました。
音楽を担当したのはヨハン・ヨハンソン(Johann Johannsson)で、この映画の前に担当したのは『博士と彼女のセオリー』(2014)です。ご覧になった人はなんとなく覚えていらっしゃるかもしれませんが、弦楽器とピアノを中心とした美しく優しいメロディーの映画音楽です。
ところが、『ボーダーライン』では、音楽というよりもむしろ効果音のようなものです。同じ作曲家が作曲したとは思えないほど異なっています。
これは最近の映画音楽の傾向のように思っています。
誰がやり始めたのか正しくはわかりませんが、ハリウッド映画音楽界の重鎮ハンス・ジマーが『ダークナイト』の頃から実験的に始めているように感じます。
ハンス・ジマーの音楽でいうと、『インセプション』ではハンス・ジマー節といえる彼ならではのメロディーも使われていますが、かなりすごいことやっています。『インターステラー』ではその得意技を封印し、効果音のような音楽を提供しています。
デヴィッド・フィンチャー監督作品の音楽担当といえるナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーも音楽というより効果音に近いと言えます。
今回のヨハン・ヨハンソンの音楽はその延長線上にあり、ひとつの頂点といえるレベルまで高まったように感じます。
メロディーを封印して打楽器のリズムだけで表現してるように聞こえます。もっと正しく言うと意図的に音楽は聞こえず、心臓の鼓動のような音が、見る者の緊張感を高めてくれます。
その音を楽しむには映画館で体験するしかなく、4回も通った理由のひとつとなっています。

原題 Sicario
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 エミリー・ブラント
   ベニチオ・デル・トロ
   ジョシュ・ブローリン
撮影 ロジャー・ディーキンス
音楽 ヨハン・ヨハンソン
上映時間 121分
公式サイト border-line.jp/

『ボーダーライン』が上映されます

そういえばヨハン・ヨハンソンって今年のアカデミー賞作曲賞にノミネートされていたなあと調べていたら、”Sicario”のサントラでたしかにノミネートされていました。受賞したのはエンニオ・モリコーネ(タランティーノ監督作『ヘイトフル・エイト』)でした。壇上で嬉し泣きした姿を見て、エンニオ・モリコーネという大巨匠がアカデミー賞もらって嬉しかったんだというのにびっくりしました。
それはそれとして、ヨハン・ヨハンソンっておもろい名前やな。これ日本人でたとえると高島隆とかドラえもんののびのびたかな。
“sicario”とはスペイン語で殺し屋とか暗殺者という意味らしく、それが『ボーダーライン』という邦題で来月公開することを知りました。アカデミー賞授賞式でノミネート紹介時にエミリー・ブラントの戦闘シーンをみて『オール・ユー・ニード・イズ・キル』やんかと思っていた作品です。
ふーん、で終わってしまいそうになったんだけれど、監督を見てびっくり。ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)ではないか。

これは見んとあかん。

この監督は2010年に『灼熱の魂』という作品を発表してアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされてます。この年のアカデミー外国語映画賞はかつてない激戦で、受賞したのはデンマークの『未来を生きる君たちへ』(スサンネ・ビア監督)ですが、他の候補にアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『BIUTIFUL ビューティフル』がメキシコ映画として、そして『籠の中の乙女』というギリシャ映画などがノミネートされていた年です。
籠の中の乙女』というなんともヘンテコな映画を撮ったヨルゴス・ランティモス監督の最新作は『ロブスター』でもうすぐ公開です。ヨルゴス・ランティモスについてはまた別に記事を書きたい監督です。
話を戻すと、ドゥニ・ヴィルヌーヴは『灼熱の魂』を撮った後アメリカに進出し『プリズナー』を撮った後『複製された男』を撮ります。そしてその後のタイミングで『ブレードランナー』の続編の監督をするというニュースがありました。
『ブレードランナー』を偏愛するものとして、続編を撮るなんて許されないことと思っていましたが、ドゥニ・ヴィルヌーヴが撮るのであれば見てみたいと思います。逆の言い方をするとドゥニ・ヴィルヌーヴが撮る続編であれば見てみたいと強く思えるのです。他に思い当たる監督はいません。
そんなドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だから、見んとあかんのです。

『灼熱の魂』http://ei6suke.izoizo.com/review/incendies/

『籠の中の乙女』http://ei6suke.izoizo.com/review/dogtooth/

『ボーダーライン』公式サイト http://border-line.jp
『ボーダーライン』予告編

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『キャロル』(2015)

オープニングから強烈に惹きつけられます。美しい鋼製グリルのアップが映し出され『めぐりあう時間たち』のフィリップ・グラスにかなり似たピアノ曲が流れてくるんです。これは意図的に似せたものを使っていると思います。
2002年のスティーヴン・ダルドリー監督の『めぐりあう時間たち』というぼくの大好きな映画があるんですが、これは3つの時代が交差した物語で、その3つというのは1923年と1951年と2001年です。『キャロル』は1952年の物語で『めぐりあう時間たち』のひとつの時代と同じなんです。『めぐりあう時間たち』の1951年のストーリーはジュリアン・ムーアが演じるローラという普通の主婦が一見幸せそうな家を出ようとするもので、表面だけを見ると同性愛のストーリーに読み間違えるものなんです。『キャロル』でその映画に似せた音を乗せることでストーリー上は単なる同性愛の葛藤を描いているのではなく、もっと深い愛の物語であることを宣言しているように見えました。
ファーストショットに移された鋼製グリルからカメラはゆっくりと上に移動していくと、そのグリルは地下の排気口のグリルであることがわかります。上空へ舞って夜の街路から街灯を写すと止まり、次のシーンに移ります。地上では語れない心の叫びを描いているように見えます。
台詞は少なく、繊細な視線の動きでお互いの愛を読んでいきます。1952年当時に撮ったような色合いがとても美しい。
舞台になっている1952年のアメリカで同性愛は精神病でした。薬物投与だけでなく重病患者の場合はロボトミー手術が行われることもあります。頭蓋骨に穴を開けて脳の一部を切除するというものです。そんな時代に自分の気持ちを貫くことはむつかしい。そういう深い映画と思います。

原題 Carol
監督 トッド・ヘインズ
出演 ケイト・ブランシェット
   ルーニー・マーラ
音楽 カーター・パウエル
撮影 エドワード・ラックマン
上映時間 118分

公式サイト http://carol-movie.com

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『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』メイキング映像

途中ちらっと写っている顔にたくさんのドットをつけていた黒人女性は「それでも夜は明ける」でアカデミー助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴ。マズ・カナタ(Maz Kanata)という居酒屋の女将のような役で登場します。
またサイモン・ペグも出演していたことがわかります。サイモン・ペグはアンカー・プルートという砂漠の惑星ジャクーの廃品回収業者のボズ役で出演。

『博士と彼女のセオリー』(2014)

主演のエディ・レッドメイン(Eddie Redmayne)を意識してはじめて見たのはリドリー・スコット製作のテレビドラマ『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』からだ。脇役ながら絶対に忘れられない存在感だった。この映画では天才的に演技がすばらしい。第87回アカデミー賞主演男優賞を獲得したのは当然に思えるほどだ。
この映画の邦題が例の如く変で、原題の通りの「万物の理論」の方が映画を見誤らずに済む。
主題は一見夫婦の愛情物語に思えるが、それが邦題によるミスリードで、実は「time 時」がテーマになっている。これは「空間・時間」の「時間」のことで、宇宙物理学物語なのだ。
宇宙と時間をイメージした映像をとてもうまく、さりげなく使っている。
映画「2001年」ネタもあるし、キップ・ソーンが登場しているけれど、宇宙映画をよく知っている人には思わずにやりとさせる。それもうまい。
冒頭、研究室にさりげなくブレのニュートン記念館のパースがかけられていて、建築好きをにやりさせてくれます。

原題 The Theory of Everything
監督 ジェームズ・マーシュ
出演 エディ・レッドメイン
   フェリシティ・ジョーンズ
   エミリー・ワトソン
音楽 ヨハン・ヨハンソン
上映時間 124分

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『大統領執事の涙』(2013)

笑福亭鶴瓶そっくりのフォレスト・ウィテカー主演の事実に基づく物語。映画的にはカメラもふわふわしていて、執事たちの動きも美しくなく、全体的に雑に撮られている。つまりこの映画は主役が彼らではないという撮り方をしているんだなと見ることができる。
この映画の本当の主役は、黒人から見たアメリカ史である。
主役が人物ではなく歴史そのもので、その歴史を執事の息子であるルイスに集約させている。
このルイスを演じたデヴィッド・オイェロウォが『セルマ』でキング牧師を演じ、母役のオプラ・ウィンフリーがその『セルマ』のプロデューサーとなっている。全部繋がっている。
Dinah Washington の曲をいくつか挿入歌として使っているのも、テーマにかかっている。

監督 リー・ダニエルズ
出演 フォレスト・ウィテカー
   オプラ・ウィンフリー
   デヴィッド・オイェロウォ
上映時間 132分
公式サイト http://butler-tears.asmik-ace.co.jp

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『おみおくりの作法』(2013)

英国版『おくりびと』です。
ぼくはこっちの作品の方が好きです。
日本映画『おくりびと』はクライマックスで「なんで」というぼくから見たら欠陥があったので急激に醒めていってしまったのですが、こちらの『おみおくりの作法』はラストのストーリーがジャンプするところもうまく撮られていて感動的でした。

たいていの場合、テーマは脇役の台詞で語られますが、この作品でも厭な上司が教えてくれます。
『シャーロック・ホームズ』の警部役で一度見れば忘れられない特徴的な脇役顔で主役なのに台詞が少ないエディ・マーサンも、スタティックな映像も、ちょっと笑えるユーモアセンスも、レイチェル・ポートマンの音楽も素晴らしい。
原題の「Still Life」も二重にも三重にも意味が重ねられていてひっそりとした名作として残っていくことでしょう。


DATA
原題:Still Life
監督・脚本・製作:ウベルト・パゾリーニ Uberto Pasolini
音楽:レイチェル・ポートマン Rachel Portman
出演:エディ・マーサン Eddie Marsan
ジョアンヌ・フロガット Joanne Froggatt
カレン・ドルーリー Karen Drury
上映時間:91分
製作国:イギリス・イタリア
公式サイト:bitters.co.jp/omiokuri


『小さいおうち』(2014)

中島京子の直木賞受賞作品を山田洋次監督が映画化した作品。この映画に出演した黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞したことでも話題になりました。
公開は2014年1月25日。公開からちょうど1年経ってWOWOWで見た感想です。

内容に著しく触れますので、作品鑑賞後に読んで下さい。

フィルムにこだわった山田洋次作品

山形から上京したタキ(黒木華)がモダンな赤い屋根の小さな家に女中奉公することになる。家は玩具会社役員の平井(片岡孝太郎)と妻時子(松たか子)息子の恭一の三人が住む家に住み込みます。ある日玩具会社の新社員板倉(吉岡秀隆)がやってくる。やがて板倉と時子がお互いに惹かれ合うのをそっと見守っていたタキが晩年(倍賞千恵子)大学ノートに自叙伝としてしたためる。
タキの死後、晩年世話していた健史(妻夫木聡)に残した遺品にその大学ノートがあり、回想する形で描かれています。

タキの晩年と死後に遺品のノートを読む現代、平井家に女中奉公していた戦前戦中の回想シーンのふたつの時代設定があります。

フィルムにこだわった山田洋次監督が本作もフィルムで撮っていますが、現代と回想シーンとでは画面の色が違います。なので画面を見るだけで現代なのか回想シーンなのかがわかるように撮られています。回想シーンがフィルムの雰囲気がより高く出ていると思います。

セットで撮った映画

ラストシーンはタキの死後、重要な人を訪ねに行くシーンはロケ撮りですが、そこを除いてすべてスタジオセットで撮られています。特に回想シーンはセットであることがわかるように撮っていると言えます。赤い屋根の小さい家はいかにも絵本のような造りになっています。

それはセットの予算をけずったからなんだかちゃっちく見えるというのではなくて、わざとセットとわかるように作っていると考えられます。その理由がはっきりとわかるシーンが後半ラスト間際に出てきます。健史が恋人のユキ(木村文乃)と書店に行ってユキからバージニア・リー・バートンが書いた絵本『ちいさいおうち』に描かれている家が平井家の赤い屋根の家にそっくりなんです。映画では屋根が赤い家なのに対して絵本では壁が赤く、屋根の勾配も似た雰囲気です。だから絵本のように、ファンタジーのように描こうとしているんだなということがわかります。回想シーンの最後、小さい家が空襲に遭うシーンはミニチュアで撮影されていて、まるで絵本のなかのちいさいおうちのように描いていると見ることができます。

信用できない語り手

映画の現代のシーンで、タキが大学ノートに書く原稿を健史がチェックするシーンがいくつかあって、当時はこうではなかったはずだから嘘ではなくて本当のことを書くようにと諭すシーンが何度か出てきます。そういうところがヒントになっていますが、回想シーンはすべてタキによって語られています。つまり「信用できない語り手」なのです。
私たちにはタキの回想を裏付ける証拠がひとつも提示されていません。
平井夫妻は防空壕のなかで死んでいたとなってるし、板倉もすでに故人であるようです。健史が死後唯一出会えた平井家の息子(米倉斉加年)も盲目になっており、映画で最も重要な手紙の筆跡を確認できません。手紙を書いたのは一体誰なのかわからないのです。

タキの回想録と数枚の写真以外に残っている証拠は、部屋の壁に掛かっていた赤い屋根の「小さいおうち」の絵だけで、もしかしたら赤い屋根の家すらも実在していなかったんじゃないかと考えることもできるます。

おそらく、この映画そのものがおとぎ話として撮られているようです。だから回想シーンはすべてセットで撮られていたんだなと納得します。
戦争の大変な時代であっても人間らしく生きていた人もいたんだよというおとぎ話なのかもしれません。

これに似た物語として思い当たるのが宮崎駿の最後の長編アニメ『風立ちぬ』かもしれないです。
主人公の二郎は妄想のなかで生きているような男でした。

『ハンナ・アーレント』(2013)

「愛って何ですか?」という問い

ダイハツ新型ムーヴのテレビコマーシャル「安全性能」篇で擬人化されたトリセツ(小松菜奈)が後方誤発進抑制制御機能を男(長谷川博己)に説明します。男の「その優しさ、愛ですね」という言葉に対してトリセツが首を傾げながら「アイ?」といった後「愛って何ですか?」と訊きます。その言葉を聞いた男が固唾を呑んで終わります。

このあと男は愛とは何であるかを答えなければなりません。愛とは何かがわからないのに「それは愛である」と言えるはずがないとトリセツは考えるからです。こういう素朴でありながら根源的とも言える問いに答えようとするのが哲学のはじまりなのかなと思います。愛とか正義とか善とか悪とか、目に見えないものを正確に言葉にすることはむつかしい。
ネットでもしばしば話題になる「なぜ人を殺してはいけないの?」という子供の素朴な問いに「あかんて刑法に書いてるねんで」と法的解釈を用いずに答えることは簡単なことではありません。

そんな素朴な問いの延長線上に『ハンナ・アーレント』という映画があるのかもしれません。

哲学の映画

ユダヤ系哲学者ハンナ・アーレントの波乱万丈の人生からアドルフ・アイヒマン裁判にまつわる部分を切り取った映画です。スライス・オブ・ライフという形式になります。

ナチスドイツの時代、強制収容所へ移送する任務を遂行していたナチス親衛隊(SS)のアドルフ・アイヒマンを捕らえ、その裁判を傍聴したハンナ・アーレントが報告書を発表し、世界的スキャンダルとなったというストーリーです。アイヒマン裁判を通して彼女の哲学的論考をダイジェスト版として紹介している内容になっていると考えるのがいいかと思います。
従いましてこの記事も彼女の哲学に関しては映画のなかで紹介されている範囲内で書いていこうと思います。なんだか全部知っているかのような書き方ですが、その反対で映画で描かれている意外のことを存じないからです。また、主題の議論に触れずには書けない内容となりますので、映画の内容に著しく触れるためにここからは映画鑑賞後に読むことをお薦めします。

映画は、夜帰宅途中の男がバスを降りたところへトラックが近寄りその男を拉致するところから始まります。歴史的にいうとアイヒマンがクレメントという名でブエノスアイレスで逃亡生活を送っていたときに1960年5月11日モサド(イスラエル諜報特務庁)が拉致した場面を映像化しているのです。5月21日にイスラエルへ運ばれ1961年4月11日からアイヒマン裁判がはじまります。裁判の様子はテレビラジオで生中継されていたようで、映画のなかでも裁判シーンは実際のフィルムをうまく編集して作っています。
ユダヤ人たちは数百万人もの同胞を強制収容所に移送させたアイヒマンのことを悪魔の化身のような極悪人だと思っています。テレビに映し出された平凡な彼の姿や言動をみても猫被っているだけだと考えています。ハンナ・アーレントはむしろごく平凡な役人がなぜ残虐な任務を遂行し続けたのかを考えていきます。

悪の陳腐さ

映画では友人と交わされる対話やゼミ室で行なわれた「全体主義の起原」についての講義を経て「8分間のスピーチ」といわれる大講堂での講義で彼女がたどり着いた考えを講義します。実際には講義のスピーチは時間を計ってみると7分弱でしたけれど。
その考えとは、普通の人が行なう悪についてです。アーレントは普通の人が行なう悪のことを「悪の陳腐さ」と名付けています。英語で「the banality of evil」という言葉ですが映画では「悪の凡庸さ」と訳されています。悪の陳腐さがもたらすものは、人間であることを拒否すること、即ち「思考停止」であり、思考停止することで残虐行為が可能になると考えました。具体的に照らし合わすと、ごく凡庸な役人であるアイヒマンは人間であることをやめて思考停止することによって大虐殺を可能にしたという考えにたどり着いたのです。
では、どうすればいいのか。
思考停止をやめ、思考するだといいます。”思考の風”を吹かせなければならない。”思考の風”がもたらすものは知識ではなく、善悪や美醜を見分ける力である、と。
考えもなしに行動することは陳腐であり、それが悪となることがある、ということなのです。
現代社会に置き換えると、上司がやれと言ったからやる、とか誰かが言っていることだから賛成するとか、内容をよく吟味しないでSNSで「いいね!」を押してしまうとか。自分の思考を介在させないことは、悪である、と言っているのです。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

スキャンダルとなったアイヒマンレポート

考えなければ人間とはいえない、と言ったハンナ・アーレントは、一方でアイヒマン裁判のレポートを発表するや世界的スキャンダルを巻き起こしました。スキャンダルとなった理由は主に二つです。
ひとつは、極悪人であるはずのアイヒマンを平凡な役人であると書いたことで、もうひとつは、ユダヤ人が強制収容所移送に手を貸したという記述があったこと、つまりユダヤ人虐殺にユダヤ人が関係していたということです。

彼女は裁判を見たまま報告したにも関わらず、ユダヤ人たちからは彼女に裏切られたと思ったのだと思います。
しかも、彼女を学生時代から知ってる友人は、そういえば学生時代彼女が師であるマルティン・ハイデガーと愛人関係にあった記憶が蘇ってきます。ハイデガーをユダヤ側の哲学者だと考えている友人はナチスと寝た女と見るようになるのです。

そんな彼女に対し友人や大学が謝罪を求めますが、彼女はきっぱりアイヒマンやナチを擁護したことはたった一度もない、と言い放ちます。
それでも感情的に許せない友人は彼女と絶交します。

映画ではその先の説明がありませんが、彼女を批判する人たちに「理解と共感の違い」を訴えているんだと見ることができます。
相手の言い分は理解した、だからといって同意したことにはならないし、共感した覚えもない、ということなんだと思います。
ここから先を考えると面白いことがわかってきます。絶交した友人をはじめ彼女を非難する人たちは、理解と共感の違いをわかろうとしていない。つまり思考を停止している人たちである。
ユダヤ人虐殺という人類最大の迫害を受けた側が、今度は迫害を行なった側と同じ思考停止に陥っているのではないかという見方もできそうです。

これはたとえばスピルバーグ監督が2005年に撮った映画『ミュンヘン』にも似たテーマが描かれていますね。
また「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」というニーチェの『善悪の彼岸』の言葉を思い出させます。

アイヒマンの自己弁護

映画の裁判シーンで、判事から問いつめられたアイヒマンが、任務を忠実に行うことのどこが悪いんだと開き直るシーンがあります。開き直るというより、アイヒマンの立場で考えるなら、もし私がやらなくても人事的に誰かが配属されて遂行されていたはずれあるという言い分です。このあたりのシーンはスティーブン・ダルドリー監督による『愛を読むひと』(2009)の第二幕にあたる裁判シーンと似た内容となっていて、こちらをご覧になるとより深く考えることができるかもしれません。

思考することは大切だけれど

人として、ひとりの人間として、あるいは人間の尊厳のために、思考停止することなく考えなければならないと映画では語っています。

だけど、どんな状況でもそうできるとは必ずしも限らないのが悲しいところでもあります。

たとえば2012年に公開されたカナダ映画でアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた『魔女と呼ばれた少女』では思考停止しなければならない状況に置かれた罪のない少女を描いています。なかなか強烈な作品でした。もし機会があればこちらの感想も書いてみたいと思います。

しかし、もちろんハンナ・アーレントの「思考することの大切さ」は現代の私たちに直接訴えかけてくる言葉だと思います。

先の言葉を繰り返しますが、考えもなしに行動することは、それが悪となることがあります。
これは、知らんうちに悪に加担していたということですから、恐ろしいことなのです。
ナチスドイツは悪の陳腐さによって虐殺を行なったけれど、それは現代社会においても大企業に務める平凡なサラリーマンたちが巨悪を働くことがあったり、普通の人たちがよく考えもせずにTwitterでリツイートしたり、Facebookで「いいね!」押したりすることで結果、悪になることもあるんじゃないか、なんも変わっていないんじゃないかと言っているようでもあります。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

もう一度、裁判の正当性について考えてみる

さて、もう一度、映画のコマを戻して、そもそもアイヒマン裁判は正しい裁きを行なったのかということを番外編として考えてみたいと思います。

映画のオープニングでアルゼンチンで逃亡生活を送っていたアイヒマンを逮捕ではなく拉致しています。映画では描かれていませんが税関をかいくぐってイスラエルへ強制移送しているわけです。それってそもそも裁判として成立するものなのかという疑問が沸いてきます。

アイヒマンに責任を求めることがどうという前に、ユダヤ人を虐殺したナチスドイツは悪いことをしたのだからその罪を明らかにし償ってもらいたいという気持ちは理解も共感もできます。じゃあ、拉致してもいいのかとなりませんか? また日本に置き換えて考えてみると、同じように原子爆弾で多くの日本人を殺したアメリカに対して同じことをなぜしていないのかと考えることもできます。戦争に負けたのだから言ってはいけないということなのか、ドイツは負けたのだから言われて当然なのか、という問いにぶつかります。歴史に「もしも」はありませんが、もしも仮にユダヤ人虐殺は1945年でやめたけれど、ドイツが戦争に勝ってしまっていたら、なんの罰も受けずにすんだことなんだろうか、などと考えてしまうのがこの映画のファーストショットではないかと言えるかもしれません。

そういうことを考えてしまうと思い出す映画がやはり2012年に公開された『アクト・オブ・キリング』を挙げざるを得ません。100万人以上が殺されたといわれているインドネシアの大虐殺の実態を虐殺を行なった側にインタビューし実演してもらったドキュメンタリー映画で、今でもその政権が続いているのです。インタビューされたひとりははっきりと俺たちは勝った側なんだから何人殺そうと罪にはならないと言い切るシーンもあります。

まさにいろいろな現実的な問題が思考の風を必要としているようです。


関連資料

映画ではハンナ・アーレントの講義のシーンが2回あります。ひとつは映画中盤のゼミ室のような部屋で行なわれるもので、もうひとつはクライマックスの「8分間のスピーチ」といわれるものです。それぞれ次の著書を大胆に要約したものとなっていると考えられます。重要となるハンナ・アーレントの著書が用語『ハンナ・アーレント』公式サイトの「キーワード」のページに掲載されています。が、もしかしたらサイトが閉鎖される可能性もありますのでこちらに引用しておきます。

『全体主義の起原』全三巻(第1部:反ユダヤ主義/第2部:帝国主義/第3部:全体主義)1951年発表

19世紀中盤のヨーロッパで形成された反ユダヤ主義、19世紀後半から20世紀前半にかけて帝国主義がもたらした種族的ナショナリズム(人種主義)と官僚制を分析することで、それらがナチズムとスターリン主義という2つの全体主義の起原になったと結論づけた、アーレントの代表的著作。

『イェルサレムのアイヒマンーー悪の陳腐さについて』

アーレントがザ・ニューヨーカー誌に5回に分けて連載後、単行本化したアイヒマン裁判の記録。ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述が、内外のユダヤ人社会から激しく攻撃された。なお、現存する400時間以上の裁判記録映像(裁判開廷50周年の2011年4月11日、YouTobeに全巻アップされた)は、アーレントの著作を踏まえた形で『スペシャリストー自覚なき殺戮者』(1999)として映画化された。

また本文中にも紹介しましたが、 劇中の講義シーンについては、sanmarie*comの記事「悪の凡庸さ 映画『ハンナ・アーレント』」に詳しく書かれています。


DATA

原題:HANNAH ARENDT
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ Margarethe Von Trotta
出演:バルバラ・スコヴァ Barbara Sukowa (ハンナ・アーレント)
アクセル・ミルベルク Axel Milberg (ハインリヒ・ブリュッヒャー)
ジャネット・マクティア Janet McTeer (メアリー・マッカーシー)
ユリア・イェンチ Julia Jentsch (ロッテ・ケーラー)
ウルリッヒ・ノエテン Ulrich Noethen (ハンス・ヨナス)
ミヒャエル・デーゲン Michael Degen (クルト・ブルーメンフェルト)
上映時間:114分
製作国:ドイツ・ルクセンブルク・フランス