『キャロル』(2015)

オープニングから強烈に惹きつけられます。美しい鋼製グリルのアップが映し出され『めぐりあう時間たち』のフィリップ・グラスにかなり似たピアノ曲が流れてくるんです。これは意図的に似せたものを使っていると思います。
2002年のスティーヴン・ダルドリー監督の『めぐりあう時間たち』というぼくの大好きな映画があるんですが、これは3つの時代が交差した物語で、その3つというのは1923年と1951年と2001年です。『キャロル』は1952年の物語で『めぐりあう時間たち』のひとつの時代と同じなんです。『めぐりあう時間たち』の1951年のストーリーはジュリアン・ムーアが演じるローラという普通の主婦が一見幸せそうな家を出ようとするもので、表面だけを見ると同性愛のストーリーに読み間違えるものなんです。『キャロル』でその映画に似せた音を乗せることでストーリー上は単なる同性愛の葛藤を描いているのではなく、もっと深い愛の物語であることを宣言しているように見えました。
ファーストショットに移された鋼製グリルからカメラはゆっくりと上に移動していくと、そのグリルは地下の排気口のグリルであることがわかります。上空へ舞って夜の街路から街灯を写すと止まり、次のシーンに移ります。地上では語れない心の叫びを描いているように見えます。
台詞は少なく、繊細な視線の動きでお互いの愛を読んでいきます。1952年当時に撮ったような色合いがとても美しい。
舞台になっている1952年のアメリカで同性愛は精神病でした。薬物投与だけでなく重病患者の場合はロボトミー手術が行われることもあります。頭蓋骨に穴を開けて脳の一部を切除するというものです。そんな時代に自分の気持ちを貫くことはむつかしい。そういう深い映画と思います。

原題 Carol
監督 トッド・ヘインズ
出演 ケイト・ブランシェット
   ルーニー・マーラ
音楽 カーター・パウエル
撮影 エドワード・ラックマン
上映時間 118分

公式サイト http://carol-movie.com

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『博士と彼女のセオリー』(2014)

主演のエディ・レッドメイン(Eddie Redmayne)を意識してはじめて見たのはリドリー・スコット製作のテレビドラマ『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』からだ。脇役ながら絶対に忘れられない存在感だった。この映画では天才的に演技がすばらしい。第87回アカデミー賞主演男優賞を獲得したのは当然に思えるほどだ。
この映画の邦題が例の如く変で、原題の通りの「万物の理論」の方が映画を見誤らずに済む。
主題は一見夫婦の愛情物語に思えるが、それが邦題によるミスリードで、実は「time 時」がテーマになっている。これは「空間・時間」の「時間」のことで、宇宙物理学物語なのだ。
宇宙と時間をイメージした映像をとてもうまく、さりげなく使っている。
映画「2001年」ネタもあるし、キップ・ソーンが登場しているけれど、宇宙映画をよく知っている人には思わずにやりとさせる。それもうまい。
冒頭、研究室にさりげなくブレのニュートン記念館のパースがかけられていて、建築好きをにやりさせてくれます。

原題 The Theory of Everything
監督 ジェームズ・マーシュ
出演 エディ・レッドメイン
   フェリシティ・ジョーンズ
   エミリー・ワトソン
音楽 ヨハン・ヨハンソン
上映時間 124分

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『大統領執事の涙』(2013)

笑福亭鶴瓶そっくりのフォレスト・ウィテカー主演の事実に基づく物語。映画的にはカメラもふわふわしていて、執事たちの動きも美しくなく、全体的に雑に撮られている。つまりこの映画は主役が彼らではないという撮り方をしているんだなと見ることができる。
この映画の本当の主役は、黒人から見たアメリカ史である。
主役が人物ではなく歴史そのもので、その歴史を執事の息子であるルイスに集約させている。
このルイスを演じたデヴィッド・オイェロウォが『セルマ』でキング牧師を演じ、母役のオプラ・ウィンフリーがその『セルマ』のプロデューサーとなっている。全部繋がっている。
Dinah Washington の曲をいくつか挿入歌として使っているのも、テーマにかかっている。

監督 リー・ダニエルズ
出演 フォレスト・ウィテカー
   オプラ・ウィンフリー
   デヴィッド・オイェロウォ
上映時間 132分
公式サイト http://butler-tears.asmik-ace.co.jp

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『おみおくりの作法』(2013)

英国版『おくりびと』です。
ぼくはこっちの作品の方が好きです。
日本映画『おくりびと』はクライマックスで「なんで」というぼくから見たら欠陥があったので急激に醒めていってしまったのですが、こちらの『おみおくりの作法』はラストのストーリーがジャンプするところもうまく撮られていて感動的でした。

たいていの場合、テーマは脇役の台詞で語られますが、この作品でも厭な上司が教えてくれます。
『シャーロック・ホームズ』の警部役で一度見れば忘れられない特徴的な脇役顔で主役なのに台詞が少ないエディ・マーサンも、スタティックな映像も、ちょっと笑えるユーモアセンスも、レイチェル・ポートマンの音楽も素晴らしい。
原題の「Still Life」も二重にも三重にも意味が重ねられていてひっそりとした名作として残っていくことでしょう。


DATA
原題:Still Life
監督・脚本・製作:ウベルト・パゾリーニ Uberto Pasolini
音楽:レイチェル・ポートマン Rachel Portman
出演:エディ・マーサン Eddie Marsan
ジョアンヌ・フロガット Joanne Froggatt
カレン・ドルーリー Karen Drury
上映時間:91分
製作国:イギリス・イタリア
公式サイト:bitters.co.jp/omiokuri


『小さいおうち』(2014)

中島京子の直木賞受賞作品を山田洋次監督が映画化した作品。この映画に出演した黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞したことでも話題になりました。
公開は2014年1月25日。公開からちょうど1年経ってWOWOWで見た感想です。

内容に著しく触れますので、作品鑑賞後に読んで下さい。

フィルムにこだわった山田洋次作品

山形から上京したタキ(黒木華)がモダンな赤い屋根の小さな家に女中奉公することになる。家は玩具会社役員の平井(片岡孝太郎)と妻時子(松たか子)息子の恭一の三人が住む家に住み込みます。ある日玩具会社の新社員板倉(吉岡秀隆)がやってくる。やがて板倉と時子がお互いに惹かれ合うのをそっと見守っていたタキが晩年(倍賞千恵子)大学ノートに自叙伝としてしたためる。
タキの死後、晩年世話していた健史(妻夫木聡)に残した遺品にその大学ノートがあり、回想する形で描かれています。

タキの晩年と死後に遺品のノートを読む現代、平井家に女中奉公していた戦前戦中の回想シーンのふたつの時代設定があります。

フィルムにこだわった山田洋次監督が本作もフィルムで撮っていますが、現代と回想シーンとでは画面の色が違います。なので画面を見るだけで現代なのか回想シーンなのかがわかるように撮られています。回想シーンがフィルムの雰囲気がより高く出ていると思います。

セットで撮った映画

ラストシーンはタキの死後、重要な人を訪ねに行くシーンはロケ撮りですが、そこを除いてすべてスタジオセットで撮られています。特に回想シーンはセットであることがわかるように撮っていると言えます。赤い屋根の小さい家はいかにも絵本のような造りになっています。

それはセットの予算をけずったからなんだかちゃっちく見えるというのではなくて、わざとセットとわかるように作っていると考えられます。その理由がはっきりとわかるシーンが後半ラスト間際に出てきます。健史が恋人のユキ(木村文乃)と書店に行ってユキからバージニア・リー・バートンが書いた絵本『ちいさいおうち』に描かれている家が平井家の赤い屋根の家にそっくりなんです。映画では屋根が赤い家なのに対して絵本では壁が赤く、屋根の勾配も似た雰囲気です。だから絵本のように、ファンタジーのように描こうとしているんだなということがわかります。回想シーンの最後、小さい家が空襲に遭うシーンはミニチュアで撮影されていて、まるで絵本のなかのちいさいおうちのように描いていると見ることができます。

信用できない語り手

映画の現代のシーンで、タキが大学ノートに書く原稿を健史がチェックするシーンがいくつかあって、当時はこうではなかったはずだから嘘ではなくて本当のことを書くようにと諭すシーンが何度か出てきます。そういうところがヒントになっていますが、回想シーンはすべてタキによって語られています。つまり「信用できない語り手」なのです。
私たちにはタキの回想を裏付ける証拠がひとつも提示されていません。
平井夫妻は防空壕のなかで死んでいたとなってるし、板倉もすでに故人であるようです。健史が死後唯一出会えた平井家の息子(米倉斉加年)も盲目になっており、映画で最も重要な手紙の筆跡を確認できません。手紙を書いたのは一体誰なのかわからないのです。

タキの回想録と数枚の写真以外に残っている証拠は、部屋の壁に掛かっていた赤い屋根の「小さいおうち」の絵だけで、もしかしたら赤い屋根の家すらも実在していなかったんじゃないかと考えることもできるます。

おそらく、この映画そのものがおとぎ話として撮られているようです。だから回想シーンはすべてセットで撮られていたんだなと納得します。
戦争の大変な時代であっても人間らしく生きていた人もいたんだよというおとぎ話なのかもしれません。

これに似た物語として思い当たるのが宮崎駿の最後の長編アニメ『風立ちぬ』かもしれないです。
主人公の二郎は妄想のなかで生きているような男でした。

『ハンナ・アーレント』(2013)

「愛って何ですか?」という問い

ダイハツ新型ムーヴのテレビコマーシャル「安全性能」篇で擬人化されたトリセツ(小松菜奈)が後方誤発進抑制制御機能を男(長谷川博己)に説明します。男の「その優しさ、愛ですね」という言葉に対してトリセツが首を傾げながら「アイ?」といった後「愛って何ですか?」と訊きます。その言葉を聞いた男が固唾を呑んで終わります。

このあと男は愛とは何であるかを答えなければなりません。愛とは何かがわからないのに「それは愛である」と言えるはずがないとトリセツは考えるからです。こういう素朴でありながら根源的とも言える問いに答えようとするのが哲学のはじまりなのかなと思います。愛とか正義とか善とか悪とか、目に見えないものを正確に言葉にすることはむつかしい。
ネットでもしばしば話題になる「なぜ人を殺してはいけないの?」という子供の素朴な問いに「あかんて刑法に書いてるねんで」と法的解釈を用いずに答えることは簡単なことではありません。

そんな素朴な問いの延長線上に『ハンナ・アーレント』という映画があるのかもしれません。

哲学の映画

ユダヤ系哲学者ハンナ・アーレントの波乱万丈の人生からアドルフ・アイヒマン裁判にまつわる部分を切り取った映画です。スライス・オブ・ライフという形式になります。

ナチスドイツの時代、強制収容所へ移送する任務を遂行していたナチス親衛隊(SS)のアドルフ・アイヒマンを捕らえ、その裁判を傍聴したハンナ・アーレントが報告書を発表し、世界的スキャンダルとなったというストーリーです。アイヒマン裁判を通して彼女の哲学的論考をダイジェスト版として紹介している内容になっていると考えるのがいいかと思います。
従いましてこの記事も彼女の哲学に関しては映画のなかで紹介されている範囲内で書いていこうと思います。なんだか全部知っているかのような書き方ですが、その反対で映画で描かれている意外のことを存じないからです。また、主題の議論に触れずには書けない内容となりますので、映画の内容に著しく触れるためにここからは映画鑑賞後に読むことをお薦めします。

映画は、夜帰宅途中の男がバスを降りたところへトラックが近寄りその男を拉致するところから始まります。歴史的にいうとアイヒマンがクレメントという名でブエノスアイレスで逃亡生活を送っていたときに1960年5月11日モサド(イスラエル諜報特務庁)が拉致した場面を映像化しているのです。5月21日にイスラエルへ運ばれ1961年4月11日からアイヒマン裁判がはじまります。裁判の様子はテレビラジオで生中継されていたようで、映画のなかでも裁判シーンは実際のフィルムをうまく編集して作っています。
ユダヤ人たちは数百万人もの同胞を強制収容所に移送させたアイヒマンのことを悪魔の化身のような極悪人だと思っています。テレビに映し出された平凡な彼の姿や言動をみても猫被っているだけだと考えています。ハンナ・アーレントはむしろごく平凡な役人がなぜ残虐な任務を遂行し続けたのかを考えていきます。

悪の陳腐さ

映画では友人と交わされる対話やゼミ室で行なわれた「全体主義の起原」についての講義を経て「8分間のスピーチ」といわれる大講堂での講義で彼女がたどり着いた考えを講義します。実際には講義のスピーチは時間を計ってみると7分弱でしたけれど。
その考えとは、普通の人が行なう悪についてです。アーレントは普通の人が行なう悪のことを「悪の陳腐さ」と名付けています。英語で「the banality of evil」という言葉ですが映画では「悪の凡庸さ」と訳されています。悪の陳腐さがもたらすものは、人間であることを拒否すること、即ち「思考停止」であり、思考停止することで残虐行為が可能になると考えました。具体的に照らし合わすと、ごく凡庸な役人であるアイヒマンは人間であることをやめて思考停止することによって大虐殺を可能にしたという考えにたどり着いたのです。
では、どうすればいいのか。
思考停止をやめ、思考するのだといいます。”思考の風”を吹かせなければならない。”思考の風”がもたらすものは知識ではなく、善悪や美醜を見分ける力である、と。
考えもなしに行動することは陳腐であり、それが悪となることがある、ということなのです。
現代社会に置き換えると、上司がやれと言ったからやる、とか誰かが言っていることだから賛成するとか、内容をよく吟味しないでSNSで「いいね!」を押してしまうとか。自分の思考を介在させないことは、悪である、と言っているのです。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

スキャンダルとなったアイヒマンレポート

考えなければ人間とはいえない、と言ったハンナ・アーレントは、一方でアイヒマン裁判のレポートを発表するや世界的スキャンダルを巻き起こしました。スキャンダルとなった理由は主に二つです。
ひとつは、極悪人であるはずのアイヒマンを平凡な役人であると書いたこと。
もうひとつは、ユダヤ人が強制収容所移送に手を貸したという記述があったこと、つまりユダヤ人虐殺にユダヤ人が関係していたということです。

彼女は裁判を見たまま報告したにも関わらず、ユダヤ人たちからは彼女に裏切られたと思ったのだと思います。
しかも、彼女を学生時代から知ってる友人は、そういえば学生時代彼女が師であるマルティン・ハイデガーと愛人関係にあった記憶が蘇ってきます。ハイデガーをユダヤ側の哲学者だと考えている友人はナチスと寝た女と見るようになるのです。

そんな彼女に対し友人や大学が謝罪を求めますが、彼女はきっぱりアイヒマンやナチを擁護したことはたった一度もない、と言い放ちます。
それでも感情的に許せない友人は彼女と絶交します。

映画ではその先の説明がありませんが、彼女を批判する人たちに「理解と共感の違い」を訴えているんだと見ることができます。
相手の言い分は理解した、だからといって同意したことにはならないし、共感した覚えもない、ということなんだと思います。
ここから先を考えると面白いことがわかってきます。絶交した友人をはじめ彼女を非難する人たちは、理解と共感の違いをわかろうとしていない。つまり思考を停止している人たちである。
ユダヤ人虐殺という人類最大の迫害を受けた側が、今度は迫害を行なった側と同じ思考停止に陥っているのではないかという見方もできそうです。

これはたとえばスピルバーグ監督が2005年に撮った映画『ミュンヘン』にも似たテーマが描かれていますね。
また「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」というニーチェの『善悪の彼岸』の言葉を思い出させます。

アイヒマンの自己弁護

映画の裁判シーンで、判事から問いつめられたアイヒマンが、任務を忠実に行うことのどこが悪いんだと開き直るシーンがあります。開き直るというより、アイヒマンの立場で考えるなら、もし私がやらなくても人事的に誰かが配属されて遂行されていたはずれあるという言い分です。このあたりのシーンはスティーブン・ダルドリー監督による『愛を読むひと』(2009)の第二幕にあたる裁判シーンと似た内容となっていて、こちらをご覧になるとより深く考えることができるかもしれません。

思考することは大切だけれど

人として、ひとりの人間として、あるいは人間の尊厳のために、思考停止することなく考えなければならないと映画では語っています。

だけど、どんな状況でもそうできるとは必ずしも限らないのが悲しいところでもあります。

たとえば2012年に公開されたカナダ映画でアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた『魔女と呼ばれた少女』では思考停止しなければならない状況に置かれた罪のない少女を描いています。なかなか強烈な作品でした。もし機会があればこちらの感想も書いてみたいと思います。

しかし、もちろんハンナ・アーレントの「思考することの大切さ」は現代の私たちに直接訴えかけてくる言葉だと思います。

先の言葉を繰り返しますが、考えもなしに行動することは、それが悪となることがあります。
これは、知らんうちに悪に加担していたということですから、恐ろしいことなのです。
ナチスドイツは悪の陳腐さによって虐殺を行なったけれど、それは現代社会においても大企業に務める平凡なサラリーマンたちが巨悪を働くことがあったり、普通の人たちがよく考えもせずにTwitterでリツイートしたり、Facebookで「いいね!」押したりすることで結果、悪になることもあるんじゃないか、なんも変わっていないんじゃないかと言っているようでもあります。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

もう一度、裁判の正当性について考えてみる

さて、もう一度、映画のコマを戻して、そもそもアイヒマン裁判は正しい裁きを行なったのかということを番外編として考えてみたいと思います。

映画のオープニングでアルゼンチンで逃亡生活を送っていたアイヒマンを逮捕ではなく拉致しています。映画では描かれていませんが税関をかいくぐってイスラエルへ強制移送しているわけです。それってそもそも裁判として成立するものなのかという疑問が沸いてきます。

アイヒマンに責任を求めることがどうという前に、ユダヤ人を虐殺したナチスドイツは悪いことをしたのだからその罪を明らかにし償ってもらいたいという気持ちは理解も共感もできます。じゃあ、拉致してもいいのかとなりませんか? また日本に置き換えて考えてみると、同じように原子爆弾で多くの日本人を殺したアメリカに対して同じことをなぜしていないのかと考えることもできます。戦争に負けたのだから言ってはいけないということなのか、ドイツは負けたのだから言われて当然なのか、という問いにぶつかります。歴史に「もしも」はありませんが、もしも仮にユダヤ人虐殺は1945年でやめたけれど、ドイツが戦争に勝ってしまっていたら、なんの罰も受けずにすんだことなんだろうか、などと考えてしまうのがこの映画のファーストショットではないかと言えるかもしれません。

そういうことを考えてしまうと思い出す映画がやはり2012年に公開された『アクト・オブ・キリング』を挙げざるを得ません。100万人以上が殺されたといわれているインドネシアの大虐殺の実態を虐殺を行なった側にインタビューし実演してもらったドキュメンタリー映画で、今でもその政権が続いているのです。インタビューされたひとりははっきりと俺たちは勝った側なんだから何人殺そうと罪にはならないと言い切るシーンもあります。

まさにいろいろな現実的な問題が思考の風を必要としているようです。


関連資料

映画ではハンナ・アーレントの講義のシーンが2回あります。ひとつは映画中盤のゼミ室のような部屋で行なわれるもので、もうひとつはクライマックスの「8分間のスピーチ」といわれるものです。それぞれ次の著書を大胆に要約したものとなっていると考えられます。重要となるハンナ・アーレントの著書が用語『ハンナ・アーレント』公式サイトの「キーワード」のページに掲載されています。が、もしかしたらサイトが閉鎖される可能性もありますのでこちらに引用しておきます。

『全体主義の起原』全三巻(第1部:反ユダヤ主義/第2部:帝国主義/第3部:全体主義)1951年発表

19世紀中盤のヨーロッパで形成された反ユダヤ主義、19世紀後半から20世紀前半にかけて帝国主義がもたらした種族的ナショナリズム(人種主義)と官僚制を分析することで、それらがナチズムとスターリン主義という2つの全体主義の起原になったと結論づけた、アーレントの代表的著作。

『イェルサレムのアイヒマンーー悪の陳腐さについて』

アーレントがザ・ニューヨーカー誌に5回に分けて連載後、単行本化したアイヒマン裁判の記録。ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述が、内外のユダヤ人社会から激しく攻撃された。なお、現存する400時間以上の裁判記録映像(裁判開廷50周年の2011年4月11日、YouTobeに全巻アップされた)は、アーレントの著作を踏まえた形で『スペシャリストー自覚なき殺戮者』(1999)として映画化された。

また本文中にも紹介しましたが、 劇中の講義シーンについては、sanmarie*comの記事「悪の凡庸さ 映画『ハンナ・アーレント』」に詳しく書かれています。


DATA

原題:HANNAH ARENDT
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ Margarethe Von Trotta
出演:バルバラ・スコヴァ Barbara Sukowa (ハンナ・アーレント)
アクセル・ミルベルク Axel Milberg (ハインリヒ・ブリュッヒャー)
ジャネット・マクティア Janet McTeer (メアリー・マッカーシー)
ユリア・イェンチ Julia Jentsch (ロッテ・ケーラー)
ウルリッヒ・ノエテン Ulrich Noethen (ハンス・ヨナス)
ミヒャエル・デーゲン Michael Degen (クルト・ブルーメンフェルト)
上映時間:114分
製作国:ドイツ・ルクセンブルク・フランス




『ゴーン・ガール』(2014)

デヴィッド・フィンチャー監督の『ドラコン・タトゥーの女』(2011)に続く最新作は前作同様大ベストセラーミステリーの映画化です。今回はギリアン・フリン著『ゴーン・ガール』が原作です。

『ドラコン・タトゥーの女』は一見普通のサスペンス映画ですが、過剰とも言えるほど凝りに凝った映像で莫大な製作費がかかった超大作です。映画を見慣れた人ならその凄さがわかりますが、もし映画を普段観ない人が観るとただの火曜サスペンス劇場と大差ないように見えるかもしれません。あまりに凄すぎて普通に見えてしまう作品なのです。いかにこの映画が凄いものなのかを知るにはDVDもしくはBlu-rayでデヴィッド・フィンチャー監督のオーディオ・コメンタリーをお聞きになるとわかります。震えますよ。映画の見方が変わります。

『ゴーン・ガール』では映画好きと自称する原作者のギリアン・フリンが脚本も手掛けています。原作をそのまま映画化しているわけではなく、異なるところ、変えているところがあります。映画秘宝2015年1月号で岡本敦史氏の「どこよりも早い『ゴーン・ガール』映画╳映画徹底比較」に紹介されています。

5回目の結婚記念日の朝、ニック・ダン(ベン・アフレック)が帰宅すると妻のエイミー(ロザムンド・パイク)がいない。やがて失踪したと気づく。失踪事件はテレビ番組にも取り上げられ、日々報道が激化するなか、ちょっとしたことから徐々にニックの過去が暴かれてゆき、やがて夫のニックがエイミーを殺害したのではないかと世間は思い始めます。
現実に起こる失踪事件でも失踪を訴える本人が殺害しているということがあるように映画でも見続けていくうちに「本当は旦那が殺したんじゃないの?」と思える状況証拠が次つぎと出てくるのです。そして、その疑惑はニックだけでなくニックの双子の妹マーゴ・ダン(キャイリー・クーン)にも嫌疑の目が向けられます。テレビ番組ではニックに同情する失踪事件からいつの間にか夫が妻を殺害した事件として扱うように変わっていくのです。二人は徐々に追いつめられていくのです。

この展開はアメリカの実在する事件と人気テレビ番組が元になっています。

スコット・ピーターソン事件

ひとつは実際に2002年に起こったスコット・ピーターソン事件がモデルになっています。
カリフォルニアで2002年のクリスマス・イヴに夫のスコット・ピーターソン(Scott Peterson)が釣りから帰ったら妻のレイシー(Laci)がいなくなっていた。妊娠8か月のお腹にはコナーと名付けられた男の子がいました。全米が見守る大事件となり街を挙げて捜索活動を行ないますが、翌2003年4月13日、サンフランシスコ湾に首のない女性の遺体とへその緒がついた胎児の遺体が発見されます。DNA鑑定で遺体はレイシーと断定され、4月18日殺人犯として夫のスコット・ピーターソンが逮捕されたのです。2005年3月16日に死刑宣告を受けます。

この事件はウィキペディアで “Murder of Laci Peterson” として載っていますが、それ以外にウィキペディアの殺人事件編といえる “Murderpedia” というサイトで Scott Lee Peterson としても載っています。他にも殺人のデータベースはいくつか(たとえば “crime library“)あり、スコット・ピーターソン本人だけでなく被害者の妻の顔写真などもネットで観ることができます。なんだか怖いですね。

scott-peterson-booking-sizedそういうサイトやGoogleでスコット・ピーターソンを検索して本人の顔を見ると、ベン・アフレックそっくりに見える写真がいくつか出てきます。
例えばこの左の顔写真がそうです。
ベン・アフレックが主演なのはスコット・ピーターソンに似ているからじゃないかと思われて仕方ないですね。ぼくはそれも狙っているなと思います。

日本ではこのスコット・ピーターソン事件はほとんど取り上げられることがありませんでしたので馴染みが薄いですが、1981年に起こった三浦和義事件、通称ロス疑惑という事件をご存知でしたら、その事件になぞらえてみると想像しやすいかもしれません。ロス疑惑にそっくりのストーリーで主演男優が三浦和義そっくりさんが演じているとしたらテレビ番組の再現ドラマっぽく見えてしまうと思いませんか? そのそっくりさんがわざと嫌疑をかけられるような演技をしてしまったら思わず笑ってしまいそうになると思います。
『ゴーン・ガール』のなかで、失踪した妻のポスターを横に写真を撮られるシーンで誰かが「笑って!」という場違いなリクエストに思わず答えて笑みを浮かべるというシーンはそういうウケを狙った演出なんですね。他にもそんな妻を殺した凶悪犯の癖にちょっと間抜けな男として描かれているシーンがいくつかあります。

ナンシー・グレース・ショー

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映画ではエレン・アボット(ミッシー・パイル)がホストを務めるケーブルテレビ番組がメディアの力を利用して関係者からの証言や状況証拠を揃えて、やがで番組内で夫が妻を殺害したと決めつけてどんどん追い詰めていきます。
これがこの映画でもうひとつ元になっているナンシー・グレース・ショーというテレビ番組です。CNNが運営するニュースチャンネルHLNで2005年から放送されている番組(アメリカでは単に「Nancy Grace」という番組名)です。HLNというのは Headline Newsの略ですね。

このナンシー・グレース・ショーは今でもアメリカで月曜日から木曜日までの毎夕8時から放送されているようで、実際の進行中の事件を取り上げて番組内で勝手に犯人を推理してその人を糾弾していくというトンデモ番組です。
こういうのって日本でも朝のモーニングショーや昼のワイドショーなどでも似たことをやってますよね。さっき挙げたロス疑惑もそうで、場合によっては警察の捜査を妨碍しているとも言われかねない過激な報道を行なっています。

自警への警鐘

最近、日本でもメディアを悪者扱いする言葉を目にしたり耳にすることが多い気がしています。ぼくはここでメディアを擁護するつもりはありませんが、メディア側からするとそういうのを人は好むからやってるんだと言えることもあります。
この映画に限らず映画の題材のひとつに「自警に対する恐怖」を描いているものがあると感じています。あたかもそう見えるような断片だけを集めて提示することで、それが真実のように見えてしまうのがメディア操作の恐ろしいところですが、そのメディア操作によって大衆がそれを鵜呑みにしてしまうことで、無実の人を陥れることになることがあるんじゃないかということです。警察を無視して犯人探しをしても本当にいいのかという問題です。
去年2014年には中古販売店まんだらけで鉄人28号のフィギュアが万引きされた事件が起きた時、まんだらけが万引き犯に対して返さなければ防犯カメラの映像を公開するとことがありました。警視庁は捜査に支障があるとして公開をやめるように要請したそうですが、盗まれたものは自分で取り返したいという被害者の気持ちも理解でき、社会的に関心の高い事件となりました。気持ちは分かるけれど、じゃあ被害者が独自に犯人を暴くのが正しい行為なのかということについては考える必要があるのです。

先のナンシー・グレース・ショーでも自分の子供がいなくなったと訴える母に「本当はあなたが殺したんでしょ」と追求していってそのお母さんが自殺する事件が起こっています。母の死によって真相はわからないままのようですが、番組がその事件を闇に葬ったとも見えるわけです。

ということでスコット・ピーターソン事件とナンシー・グレース・ショーが『ゴーン・ガール』のモデルになっていると考えられます。

と、ここまでが全体の三分の一なんです。
この後、映画はジェットコースターのような展開を見せます。


WARNING
以下、映画を観ていない方は観賞後に読まないと一生後悔します!


続きを読む▶

『インターステラー』(2014)

クリストファー・ノーラン監督最新作。SF映画の巨岩『2001年宇宙の旅』に真正面から挑んだ作品と言えます。
さっぱりわからんかったけれど激烈に感動した、というのが初見の正直な感想です。
この「さっぱりわからん」も含めて『2001年』的であると言えます。
多くの映画ファンが大傑作と認める『2001年』は一体なんの話なのか分かっている人は多くいません。だけど、多くの人を感動させ、20世紀最高のSF映画と挙げられる作品になってます。
ネットでレビューをいくつか検索してみると涙したという感想の間に、これのどこがええねん、という感想も見受けられるということからも、この作品が大傑作となって映画史に残る可能性が高そうに思えます。
ここでは、さっぱりわからんかった筆者に多くを語ることができませんので、いくつかの映画と比較して感想を書いてみたいと思います。

一年前のSF大作『ゼロ・グラビティ』とは真逆の作品である

同じ宇宙もののSF映画として最近のとんでもない力作で本当はアカデミー賞作品賞を獲るはずだった『ゼロ・グラビティ』とは映画技術でみると真逆の作品です。
『ゼロ・グラビティ』は映画史の最先端を行くテクノロジーを駆使し、もっというとこの映画を撮るために新しい撮影技術を開発して創られた100%デジタル撮影の作品です。本来撮影後に映像処理するために使うCGを先に作り込んで、その映像に俳優たちをはめ込むという逆のことを行なっています。そのためにあらゆる動きを同期させると言うかなり難易度高いことをやっているのです。
『インターステラー』は同じ宇宙もののSF映画にも関わらずフィルムで撮影しています。35mmとIMAX70mmフィルムだそうです。
CG処理は特撮時のワイヤーなどを消す作業程度にしか使っていません。
そのため全部実物大のセットやミニチュアを創って撮っているのはもちろんです。
つまり1968年に発表された『2001年』当時の技術でほぼ撮られています。六角形のレンズフレアが写っているのはそのためです。
クリストファー・ノーラン曰く、フィルムで撮られたものの方がリアルであり、デジタルで撮影されたものはどうもコンピューターゲームみたいで好きじゃないということなのです。
また黒がデジタルではどうしても真っ黒にはならないということもフィルムを選んだ理由として挙げています。

『未知との遭遇』

監督は『2001年』だけでなく多くのSF映画からの影響を認めています。『ブレードランナー』『エイリアン』『スター・ウォーズ』『E.T.』『ライトスタッフ』、タルコフスキーの『惑星ソラリス』『鏡』などを挙げています。

またこの映画は最初はスティーヴン・スピルバーグが撮るはずでした。『コンタクト』をコーディネートした理論物理学者キップ・ソーンが立案したものをスピルバーグが撮ることとなりスピルバーグに雇われたジョナサン・ノーランが脚本を書いていた経緯があります。

ところがスピルバーグのドリームワークスがパラマウントからディズニーに移ったためにパラマウントが新たに監督を探すことになり、ジョナサンが兄のクリストファー・ノーランを推薦したのです。

そういう経緯があり、物語には壮大なテーマを家族に集約させるという手法を採っています。

家族を棄てて宇宙に旅経つという設定は『未知との遭遇』そのものです。そういう視点で『インターステラー』を見てみるのも面白いと思います。

『インセプション』

クリストファー・ノーラン作品の近作『インセプション』と比べてみても面白い。

こちらは夢の中の物語で、夢の中で夢を見るなどと自分の意識の下へ下への入って行く物語であるのに対して、『インターステラー』は逆に宇宙の上へ上へと向かっていく物語です。

自分の意識の奥へ行くに従ってどろどろとしたものからやがて砂漠のような風景となることを描いた『インセプション』を撮ったクリストファー・ノーランが宇宙をどう描くのかという見方で見るのは面白いです。

また、クリストファー・ノーランはキャスティングが絶妙な監督であると言えます。

たとえば『インセプション』ではエディット・ピアフの曲が重要な役割を果たしていますが、そのエディット・ピアフを演じたマリオン・コテアールを主人公の自殺した妻として出演させ、主役のディカプリオは『インセプション』出演前に出た『レボリューショナリー・ロード』と『シャッタ・アイランド』では妻を死なせてしまった役を演じています。

観客が映画を見る時にその俳優が演じた背景を無視して見ることができないことを巧みに利用しているとも言えます。

今回もそういうキャスティングがあります。

宇宙物理学に関してはちんぷんかんぷんですが

最後に宇宙物理学の知識があった方が楽しく見られると思いますが、物理学というだけでアレルギー症状を起こす人も少なくないと思います。

別にわからなくても大丈夫です。

後半のクライマックスに向けて「この際相対性理論はどうでもいい」という台詞が出てきますから。

その上で、ひとつだけ触れておきたいのが5次元です。

1次元:線
2次元:面
3次元:立体

というのは基礎知識として、次に、4次元という時に一般的に言われているのが「時間」です。

それはまあ同意するとして、5次元めの軸は一体なんなのか。

映画の中でアン・ハサウェイが、そのことについて語るシーンがあります。

それは一体なんなのか、に注目してご覧になると面白いと思います。

クリストファー・ノーランと言えば音楽はハンス・ジマーが常連ですが、今回はダークナイトシリーズなどで耳にするハンズ節みたいなものは消えた新しい音楽になっていると思います。

なんだか全然書き足りませんが、とりあえずは初見の感想ということで。

今年のぼくの映画鑑賞歴は『ゼロ・グラビティ』にはじまり『インターステラー』に終わりそうです。

interstellar_tablet_farm

『エリジウム』(2013)


ニール・ブロムカンプ監督の傑作SF『第9地区』に次ぐ作品です。本作品ではなんとマット・デイモンが主演し、ジョディ・フォスターも出演します。すごいグレードアップです。
地球環境が悪化したために超富裕層がスペースコロニーに居住し、そこに住めない人々が劣悪な環境下の地球でスペースコロニー監視下で貧困に喘ぎながら暮らすしている、という近未来SFにありがちな設定です。
ぼくが好きな映画『ブレードランナー』でも地球がディストピアと描かれていますが、同じロサンゼルスが舞台で時代設定も含めてその延長線上にあると言えます。
さらに遡ると、階層化された社会の分断を描いた傑作SFに『メトロポリス』があります。こちらは地上の超高層に住むブルジョア層と日も当たらない地下で奴隷のように働かされる労働者階級に二分して描いています。
映画ではしばしば現実社会への問題提起としてSFやホラーという表現形式をつかいますが、本作もそうです。
本作は医療問題が主題ですが、かなりわかりやすいかたちで表現されています。
前作『第9地区』では南アフリカのアパルトヘイト政策をエイリアンという形で表現していたのに対し、『エリジウム』は高度に発達した医療はつまるところ金持ちのためにしかないと言う物語です。
その主題については、映画を見ればだれでもわかるレベルで描かれていますので、今回は別のところについて少し触れたいと思います。
『第9地区』をご覧になった人はわかると思いますが、ニール・ブロムカンプは恐らく趣味として戦闘機や兵器が好きなんだなと思います。
そこはあまり詳しくないためにぼくは書けませんが、2作を通じてかなりリアルに表現していると思います。共にスラム街が舞台となっていますが、その中古っぷりやぼろぼろ具合が共通している気がします。
また、本作で表現されているものに、パワードスーツとスペースコロニーがあります。
パワードスーツが映画で初めて登場したのは1986年ジェームズ・キャメロン監督作品『エイリアン2』ではないかと思います。
『エイリアン2』ではパワーローダーという進化したフォークリフトのようなデザインで出てきますが、そのフォークリフトをパワードスーツとしてエイリアンと闘うためにシガニー・ウィーバーが装着します。
スペースコロニーもかなりしっかりと描かれています。ぼくが注目したのは、オープンエアでそのまま宇宙空間に開放しているというところです。遠心力を利用して大気層をつくっているんだとわかりますが、このスペースコロニーについて勉強しておくべきだと思いました。

あと、近未来のディストピア社会を描く上で必要不可欠な高度に管理化された社会についてもかなりわかりやすく表現されています。一例は、冗談の通じないロボットのような役人たちをそのままロボットとして登場しています。
そして、この映画で描かれていることは、残念ながらSFという絵空事ではなく、視覚化されていないだけで、既に現実になっています。
舞台は2154年ロサンゼルスですが、これはSFではなく、現実社会を少しだけディフォルメした物語であるといえます。

『インポッシブル』(2012)

2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震後の津波に遭遇したある家族の実話をもとに描かれた映画です。
津波を体験するということはどういうことなのかを実感できる映画です。日本では東日本大震災で起こった津波の映像をNHKなどで多くの人が見ていると思いますし、実際に体験した人の話を聞くことも少なくないと思います。しかしながら、見聞きするものと体験することの間には大きな違いがあります。
この映画はその両者の大きな隔たりをかなり近くしてくれるものになっていると断言します。

実際に津波に遭うということはどういうことなのか。
津波が引いた後はどうなっているのか。
助かった後、体にはどんなことが起こるのか。
その後人間はどういう行動をとるのか。

そういうことを克明に表現してくれています。

津波に関していろいろ見たり聞いたりするよりは2時間足らずのこの映画を見る方がいいと言い切ります。
最近よく見る「事実に基づく物語」というタイプに入るものになるのですが、この映画は見る人の経験にかなり近いものを与えてくれると思うからです。
そして、災害後に起きる物語に津波にも勝る感動的なシーンが幾度となく出てきます。

映画は、日本で働く一家が年末休暇にタイに行き、災害に巻き込まれる物語です。ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツが夫婦役の三人の子供のいる家族が主演です。
ナオミ・ワッツは本当に巧いと思います。かなりハードな役だと思いますが彼女の演技がよりリアリティーを高めてくれていると思います。

ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツ出演なのでハリウッド映画と思っていると、ちょっと映画の雰囲気が違うんです。調べてみると監督以下スタッフィはスペイン人で、スペイン映画でした。

オフィシャルとは思えない簡素な作りの公式サイト(http://impossible-movie.jp)にはメイキングのYouTubeが載っています。次にリンクを貼っておきますが、1/2スケールミニチュアを製作して撮っているシーンなど、フルCGとは違って手作り感溢れる特撮風景が紹介されています。


リドリー・スコット最新作『悪の法則』のブルーレイのオーディオ・コメンタリーで知ったのですが、スペインは国策として映画に力を入れているそうです。
スペインでスペイン人を雇用して外国映画を撮影すると補助金が出るそうです。詳しい条件はわかりませんが、リドリー・スコットによるとスペインロケを行ったために映画の予算が増えかなり助かったということらしいです。『悪の法則』にハビエル・バルデム、ペネロペ・クルスのスペイン人夫婦の俳優が出演している理由はもしかしたらそこにもあったのかもしれません。
話を『インポッシブル』に戻すと、もしかしたらこの作品も同じ理由でスペイン・アメリカ合作なのかもしれません。
推定の話はさておき、教育的作品として必見の映画だと思います。

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