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『灼熱の魂』(2010)

2012年は1月から3月までに見た映画の記録がなくなってしまったんですが、4月から年末までに52本の映画を見ていました。そのなかからおすすめの映画を一本紹介したいと思います。

「灼熱の魂」(原題:Incendies)という2010年のカナダ映画です。

原題の ‘incendies’ とはフランス語で「火災」という意味のようです。内容は火災というニュアンスよりも大火事に近い気がします。邦題の『灼熱の魂』はいいネーミングじゃないかと思いました。

劇場ではなくWOWOWで放送されたものを録画で見たものです。
正直に言うと、実は途中寝てしまいました。
うーん、なんだろう、なんかようわからへんなあ、と思うと、ついうとうととなってしまっていくつかのシーンが記憶にありません。
もう途中で見るのんやめようかなと思ってしまいそうになります。

その理由をいくつか考えてみましたが、恐らく全体的に説明が詳しくないからだと思います。
登場人物の関係性がわかりにくい。母と娘が出てきますが、はじめは同じ人物かと思ってしまって気づくまでに時間を要してしまいました。
時間軸を複雑に入れ替えていて、その説明があまりされていません。
たとえば、いままでは回想シーンだったのが現在のシーンに切り替わっても、画面の違和感がほとんどないためにその変わり目がわかりにくかったりします。最近でいうとデヴィッド・フィンチャーの『ドラゴン・タトゥーの女』のように時代が変わるとフィルムの色味が変わったりしてわかりやすいのですが、本作品は同じ調子で続くので、あ、これ時代が変わったやんと自分の頭の中でシーンを遡ってストーリーを追い直さなければいけないところがあります。

それでも諦めずに最後までたどりつくと、ものすんごい結末を見ることができます。言いたいけれどこれ以上は書きません。いや、話すと止まらなくなりそうで、ついつい言ってしまいそうになってしまうからです。
そりゃもうすごいのです。どれくらいすごいかも言いたくなってしまいそうですが、それも言いません。どういう種類ですごいのかも言いません。喋りたくなりますが、ぐぐぐぐっとこらえます。そういう意味ではこの映画はミステリー映画ともいえます。

内容については多くを触れることができませんが、レバノンらしき内戦が行なわれているある国で、母と二人の子供をめぐる物語です。母が死ぬところから始まります。母の死後、残された二人の子供に遺言が言い渡され、その遺言に従って母の人生を辿る物語となってます。

この作品は2010年の第83回アカデミー賞外国語作品賞にノミネートされた5作品のうちのひとつになっています。
「未来を生きる君たちへ」デンマーク
「BIUTIFUL ビューティフル」メキシコ
「籠の中の乙女」ギリシャ
「Hors-la-loi」アルジェリア
の5作品です。
なかでも「21グラム」「バベル」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督によるバルセロナを舞台にし、スペインを代表する俳優であり同じくスペインを代表する女優ペネロペ・クルスを妻に持つハビエル・バルデムが主演の作品「BIUTIFUL ビューティフル」は大きな話題を呼びました。
結果はスサンネ・ビア監督によるデンマーク映画「未来を生きる君たちへ」が受賞しています。この映画は報復の連鎖について問題提起している傑作です。見事受賞した作品であることが納得できると思います。
ですが、この「灼熱の魂」は衝撃的な作品です。衝撃という言葉が陳腐に思えるほど燃えるように熱い、まさに灼熱の作品です。

そう、たとえ途中うっかり寝てしまってでもこの「灼熱の魂」は見る価値があるのです。なんちゅう紹介やねんと言われそうですが、そうなのです。見た人の感想を聞きたいと思う数少ない作品のひとつです。

もしご覧頂ければなぜこの映画について詳しく語れないのかがわかっていただけるのではないかと思います。

日本語版の公式サイトはこちらです ▶ http://shakunetsu-movie.com/pc/
いつまで残っているサイトなのかが不安なので、各メディアから寄せられたレヴューからふたつだけ引用しておきます。


今年のアカデミー賞外国語映画賞は本作が受賞すべきだった!
物語はアガサ・クリスティー級のドラマティックな展開で始まり、
ソフォクレスのギリシア悲劇のように終わる

Wall Street Journal


多くは語るまい。『灼熱の魂』は予備知識なく観るのが一番だ。
そして一度観たら決して忘れ去ることはできないだろう

Rolling Stone


『籠の中の乙女』(2009)

2009年公開のギリシャ映画『籠の中の乙女』の日本版予告編です。
この作品は第62回カンヌ国際映画祭で上映されて「ある視点」賞を受賞しています。第83回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートもされた作品なのである視点によってはアカデミー賞作品賞候補より優れた映画とも考えられる作品と言えます。
第83回(2010年)アカデミー賞外国語映画賞のノミネート5作品は次の通りです。

  • 『未来を生きる君たちへ』デンマーク映画
  • 『BIUTIFUL ビューティフル』メキシコ映画
  • 『籠の中の乙女』ギリシャ映画
  • 『灼熱の魂』カナダ映画
  • “Outside the Law” アルジェリア映画

今回この映画を見たのでぼくがまだ見ていないのはアルジェリア映画の “Outside the Law” だけになりました。受賞したのは『未来を生きる君たちへ』でした。

犬歯というタイトルの映画

『籠の中の乙女』に話を戻しましょう。

上掲の日本版予告編から想像する世界観とは本編は随分違う印象を受けます。
モーツァルトや映画『ものすごくうるさくてありえないほど近い』の音楽が流れていますが、本編では効果音としてのサントラ音楽は流れません。
とても平板でルーティンな暮らしが映されます。全編96分のなかでは予告編に使われたシーン以外はほとんど退屈なシーンばかりです。途中寝てしまいそうになります。ぼくは記憶を失ったシーンがあると思います。

次に引用するのは英語版の予告編です。”Dogtooth” というのが英語タイトルで、ギリシャ語の原題 “Κυνόδοντας” も同じ意味です。

タイトルの “dogtooth” とは文字通り「犬歯」のことでストーリー上重要な言葉となっています。

この映画はある一家の物語で登場人物も6人だけです。予告編に全出演者が映っています。正確には一言だけ台詞のある脇役を入れて7人です。ですが、メインはある一家の父、母、長女、次女、長男の5人家族と父の経営している会社の女性警備員の6人だけです。基本的に一家の家の中でストーリーが進みます。

ストーリーの紹介はWikipediaをそのまま引用したいと思います。(引用元

ギリシャのとある裕福な家庭の父母は、3人の子供たちを家から一歩も外出させず、社会から隔絶させて育てていた。子供たちに名前すら付けず、外の世界は恐ろしいと洗脳し、更に外の世界に関わる言葉については嘘の意味を教えるなど徹底した管理の中、父親は母親を含めた家族全員に対して絶対的な地位に君臨していた。やがて長男が思春期に突入すると父親は性欲処理用に女を雇うことにする。その女として選ばれたクリスティナは長男との関係に飽き足らず、長女にまで手を出す。一方、性に目覚めた3人の子供たちは無邪気に性的な関係を結ぶようになる。

クリスティナに性的な関係を求められている長女は、その代償としてクリスティナが持っていたビデオを手に入れると、録画された内容から外の世界に興味を抱くようになる。ビデオの存在を知った父親は長女を激しく折檻し、更にクリスティナの家で、彼女をビデオデッキで叩きのめすと、呪いの言葉とともにクビにする。

両親の結婚記念日を祝った夜、長女はかねてより両親から言われていた「犬歯が生え変わったら外の世界に出られる」との言葉を信じ、嬉々として自ら犬歯を折ると、父親の車のトランクに隠れる。長女の姿が消えたことで慌てた家族だったが、諦めた父親は翌朝、長女がトランクに入ったままの車で仕事に出かける。父親の職場の駐車場に止められた車のトランクが大写しにされ続け、何も変化を見せないまま物語は終了する。

上掲のストーリーと予告編でほとんど内容がわかりそうな気がします。

正直申し上げると、とても妙な映画です。と同時にとても不快感を抱く内容です。父の歪んだ子育てによって子供たちは人間性を失っているという不快感です。見る者を不快にさせてしまうような映画に見る価値があるのかと思ってしまうほどです。
なので見終わるともう二度と見ることもないと思い、録画したHDDからデータを消去しました。

ところが、数日経ったある日、これはひょっとしたらプラトンの「洞窟の比喩」を描いていたのではないかと思うようになったのです。

プラトンの「洞窟の比喩」

プラトンの「洞窟の比喩」と呼ばれる逸話は『国家』の第7巻の最初に記されている喩え話です。

fig5

岩波文庫に掲載されている挿図(左図)を元に簡単に説明してみます。図は洞窟の概略図で、左上の開いているところが地上です。
地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおうというところから始まります。
人は〔ab〕のところに手足も首も縛られたままでいて動けないし、矢印の方向にしか視界が開けていない。
彼らの上部〔i〕に火が燃えていて、その光が彼らの後ろから照らされている。
〔ef〕のところには人形遣いがいて〔gh〕に衝立(ついたて)が置かれている。人形遣いが操り人形を出してみせている。それが洞窟の奥にある〔cd〕の壁に影が映し出されている。

一生涯〔ab〕にいる人が〔cd〕の壁に映る影だけを見ているとすると、その影が実体だと信じて疑わない。まさか、その後ろにある〔ef〕が実体で〔cd〕はその影にすぎないとは考えもしないだろう。さらに、洞窟の外には大地があって太陽が照っている世界があるとは想像を超えている。光とは〔i〕のことであって、まさか洞窟の外の太陽が存在するなどと言われても信じない。

『籠の中の乙女』を見ている私たちは、登場人物たちをこの「洞窟の比喩」の拘束された人たちと同じではないかと考えることができるのではないかと思ったのです。
あそこに住む子供たちは敷地の内側だけが本物の世界だと信じ込まされている。また、ことばの意味も間違って教わっている。敷地の外にはもっと別の「本当の世界」があることを知らないし、もしも知ったところで、言葉を違って覚えているのでコミュニケーションが取れない。そんな彼らに悲劇を見る。父親は彼らから残酷にも人間性を奪っていると見ることができます。

監督はプラトンと同じギリシャ人としてプラトンが『国家』のなかで紹介したこの「洞窟の比喩」を監督流の感性で描いたのではないかと推測することができるかもしれません。

もしこの強引にも思える仮説が合っているとすれば、鑑賞者である私たちこそが実は洞窟のなかの拘束された囚人なのかもしれないと言っているのかな、と邪推してしまうのでした。